【プロレスこの一年 ♯6】猪木現役最後のタイトルマッチ 32年前の藤波戦「激闘の60分」をプレイバック

本欄が掲載される8月8日は、ある一定以上の年齢層のプロレスファンにとって忘れがたくもまた感慨深い一日でもあるだろう。昭和63年(1988年)8月8日は、新日本プロレスの横浜文化体育館で藤波辰巳(現・辰爾)とアントニオ猪木が一騎打ちをおこない、フルタイム60分戦い抜いた日として記憶されている。しかも当時は藤波がIWGPヘビー級王者で猪木が挑戦者という師弟の立場逆転の図式でもあった。しかも結果的に、猪木にとってこれが現役最後のタイトルマッチにもなっている。猪木は翌年に政界進出、リングには共産圏のレスラーを招聘するなど内外で話題を振りまいていくことになるのだが、リング上の純粋な戦いでは世代交代が着実に進んでいた。その流れを加速させたのが、この年に起こった藤波による“飛龍革命"だったのだ。

1988年の猪木と藤波の「激闘の60分」【写真:平工 幸雄】
1988年の猪木と藤波の「激闘の60分」【写真:平工 幸雄】

1988年8月8日アントニオ猪木現役最後のタイトルマッチ

 本欄が掲載される8月8日は、ある一定以上の年齢層のプロレスファンにとって忘れがたくもまた感慨深い一日でもあるだろう。昭和63年(1988年)8月8日は、新日本プロレスの横浜文化体育館で藤波辰巳(現・辰爾)とアントニオ猪木が一騎打ちをおこない、フルタイム60分戦い抜いた日として記憶されている。しかも当時は藤波がIWGPヘビー級王者で猪木が挑戦者という師弟の立場逆転の図式でもあった。しかも結果的に、猪木にとってこれが現役最後のタイトルマッチにもなっている。猪木は翌年に政界進出、リングには共産圏のレスラーを招聘するなど内外で話題を振りまいていくことになるのだが、リング上の純粋な戦いでは世代交代が着実に進んでいた。その流れを加速させたのが、この年に起こった藤波による“飛龍革命”だったのだ。

 2月7日の札幌でドラゴン・スリーパーを初公開した藤波が行動を起こしたのは、東京などの大都市ではなく沖縄だった。4月22日の奥武山体育館での試合後、バックステージで突然、革命の狼煙が上げられた。初代IWGPヘビー級王者・猪木に向かい、藤波がビッグバン・ベイダーとのシングルマッチを直訴したのだ。「もう何年この(猪木頼みの)状況が続いているんですか!?」と問う藤波に、猪木が「やれんのか!?」と問いただす。そのとき藤波は、ハサミを取り出し前髪を切るというまさかの行為で決意のほどを示してみせた。

 藤波は、ただベイダーと戦いたかったわけではなかった。猪木へのジェラシーが溜まっていたわけでもない。むしろ師匠・猪木にかかりすぎる負担を軽減させたい、これからは自分たちの世代が新日本を支えるべきとの思いが大きいがゆえの決起だった。そしてこのアピールが実り、藤波とベイダーの対戦が実現。翌日に猪木が左足首を骨折したため、藤波のリングアウト勝ち(4月27日)を経てIWGPヘビー級王座をかけての対ベイダー、新王者決定戦が組まれることとなったのである。

 当時屋根のなかった有明コロシアムの雨天順延も乗り越えての5月8日、反則勝ちながらも藤波がベイダーを破り第2代王者に認定された。が、この結果を藤波自身が納得するはずもなく、真の勝負は猪木を挑戦者として迎え撃つ8・8横浜文体が舞台となった。このとき、猪木はすでに長州力から初のピンフォール負けを喫しており(7月22日)、“落日の闘魂”とまで叫ばれていた。「藤波に敗れれば引退か」という噂まで…。それでも挑戦者を決めるリーグ戦を勝ち進んでの師弟対決に臨んだ猪木。新日本が大量離脱に見舞われた85年9月19日の東京体育館以来となる一騎打ちは、ストロングスタイルの神髄を見せつけるかのような重厚な戦いが展開され、前回に勝るとも劣らない名勝負となった。試合は60分間戦い抜いてのドロー。猪木の一大事(?)で久しぶりに実況を担当した古舘伊知郎アナは、「2人の猪木が戦っている!」と表現した。それはすなわち、これぞ新日本プロレスというストロングスタイルの頂上決戦だったのだ。

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