小西康陽「渋谷系と呼ばれて今がある」 ピチカート・ファイヴ結成秘話「ここまで酷いのかと」
1990年代に若者のカルチャー「渋谷系」をけん引した音楽グループ、ピチカート・ファイヴ(2001年解散)のリーダーを務めた音楽家の小西康陽が、10月30日に約40年のキャリアで初となる本人名義のボーカル・アルバム『失恋と得恋』をリリースした。同作品の制作開始直後は「これまでの作品の1つ」と考えていたそうだが、完成した時には「後世に残したい大切な作品」へと心境が変わったという。そこにはある思いが……。ENCOUNTが小西本人を直撃すると、数々の貴重な話を教えてくれた。そこで、同アルバムを通して見えた彼の音楽のルーツを2回にわたり紹介する。後編は「ソロアルバム、ピチカート・ファイヴへの思いについて」。
ソロアルバム『失恋と得恋』 インタビュー後編
1990年代に若者のカルチャー「渋谷系」をけん引した音楽グループ、ピチカート・ファイヴ(2001年解散)のリーダーを務めた音楽家の小西康陽が、10月30日に約40年のキャリアで初となる本人名義のボーカル・アルバム『失恋と得恋』をリリースした。同作品の制作開始直後は「これまでの作品の1つ」と考えていたそうだが、完成した時には「後世に残したい大切な作品」へと心境が変わったという。そこにはある思いが……。ENCOUNTが小西本人を直撃すると、数々の貴重な話を教えてくれた。そこで、同アルバムを通して見えた彼の音楽のルーツを2回にわたり紹介する。後編は「ソロアルバム、ピチカート・ファイヴへの思いについて」。(取材・文=福嶋剛)
――小西康陽さん名義のソロアルバムはキャリア約40年で初めでです。さらに全曲、小西さんが歌いました。
「確かに歌手を立てて作ったら気は楽だったかもしれません。でも今回は『自分の歌をレコードとして残すのは、もしかしたら一生に一度のチャンスかもしれない』と思い、生涯で一枚だけならシンガーソングライターとしての『僕のレコードを作るのも良いな』と思いました」
――実際に歌ってみていかがでしたか。
「その質問は酷です(笑)。歌は得意じゃないから、『とにかく丁寧に歌うしかない』と思ってレコーディングしました。歌い終わってから録音した自分の声を確認するたびに冷や汗が出てきました」
――とても雰囲気のある歌声で、歌詞を見なくても歌を聴くだけで言葉が入ってきます。
「そう言っていただけると救われます。4曲目『私の人生、人生の夏』は、カヒミ・カリィさんに提供した曲なのですが、僕はわざとしわがれ声というか、ちょっとかすれた感じで歌おうと思いました。そしたらよぼよぼのおじいさんが歌っているみたいになって(笑)。結構、今の自分と向き合いながら切実なものを感じました」
――8曲目の『朝』は、日本を代表するミュージシャン(高田渡、山本コウタロー、若林純夫ら)が、1971年に結成したフォークグループ・武蔵野タンポポ団の曲。小西さんのささやくような歌声にピッタリだと感じました。
「うれしいです。子どもの頃からフォークソングが好きで、加川良さん、遠藤賢司さん、高田渡さんら、多くの方のコンサートに行きました。特に中学2年の夏休み直前に、ベルウッドレコード(日本のフォーク黎明期の音楽シーンを支えたレーベル)から武蔵野タンポポ団のレコードが出たことは今でも忘れられません。僕の人生を変えてしまうくらい夢中になり、何度も聴きました。そして夏休みが明けた9月の文化祭で生まれて初めてバンドを組み、武蔵野タンポポ団をカバーしました」
――まさに小西さんの音楽人生の出発地点ですね。
「そうですね。バンジョーを弾きながら歌った記憶があります。中学2年でギターを弾き始め、朝礼の時に人前でギターを弾いたり、好きな音楽を奏でるだけで毎日が楽しかった思い出があります。翌年2月の終わりには、(バンドの)はっぴいえんどの3枚目のアルバム『HAPPY END』(1973年)が出て、1曲目の細野晴臣さんが書いた『風来坊』という曲を聴いて、『僕も作詞作曲がしたい』『レコード作る仕事に就きたい』と思いました」
――作詞家、作曲家、アレンジャー、プロデユーサーとして高い評価を得ていますが、“作り手”として、音楽に携わるようになったきっかけは。
「それは青山学院大学に入った直後のライブがきっかけでした。入学してすぐにバンドを組み、自信満々で4月の新入生紹介のライブで歌いました。R&Bを3曲歌い、自分としてはもう大満足のステージでしたが、家に帰って録音したものを聴いた時、『ここまで(自分の歌は)酷かったのか』とがく然としてしまいました。それがトラウマになり『もう2度と歌わない』と思うようになりました」
――その経験があったからピチカート・ファイヴができた、と。
「そうです。きっと自分で歌っていたら、とっくに音楽をやめていたと思います。あの時のトラウマがあったから、田島(貴男)くんや野宮(真紀)さんと出会えたんです。むしろ『自分はフロントに立つタイプじゃない』と早く気が付いたのがよかったと思います」
――ただ今作の『失恋と得恋』では小西さん自らピチカート・ファイヴの曲を歌っています。
「結局、(収録した曲は)自分の好きなものばかりになりましたね」
――ピチカート・ファイヴのサウンドがとても静かで優しいアレンジです。
「わりとピチカート・ファイヴを始めた頃から、アレンジを全部はぎ取って、ちゃんとした曲として成立するものを書こうと思って作ってきました。この前、カーネーションの直枝政広さんと一緒に弾き語りライブをやった時、直枝さんが『僕たちはバンドの曲を作っている感覚なんだけど、小西さんの曲はどれも誰かに歌ってもらうためにちゃんと音符が聴こえる音楽だ』と言ってもらえてその言葉がすごくうれしかったです」
――小西さんが作詞作曲したピチカート・ファイヴの代表曲『東京は夜の7時』も収録されています。
「たった30秒ですけど。(振り返ると)この曲は、『子ども番組(『ウゴウゴルーガ』)のテーマソングを作って欲しい』と依頼を受けて作った曲です。これまで依頼をいただいて作った曲は数多くありますが、まさかこんなに残る曲になるとは思っていなかったです。きっとこの曲には何かあるんでしょうね」
歌は地球上で最高の“楽器”
――ピチカート・ファイヴは「渋谷系を代表するアーティスト」と呼ばれています。改めて渋谷系と呼ばれていることについては。
「とてもありがたいと思っています。僕たちがデビューして何年かは、当時のレコード会社に『何と例えたら良いのか分からない音楽』と言われていました。だから『渋谷系』と呼ばれたことで、その時代の音楽として認知してもらえたことで今があると思っています」
――小西さんは、これまで「時代に左右されない曲」と「時代に合わせた曲」、両方の曲を数多く作ってきました。
「それは筒美京平先生が、とっくの昔に見抜いていたことなんです。わりと音楽の芯にあたる部分は、時代に左右されることなく全く変化していません。では新しいと思うのは何かというと、アレンジなんです。分かりやすく言うとその曲に着せる洋服(=アレンジ)が、時代やファッションによって変わっていくという感覚です。だから裸になったら同じなんですよ」
――では、小西さんが、ピチカート・ファイヴっぽさを持っていると感じる今のアーティストがいたら教えてください。
「それを挙げるのは、相手にとって失礼にあたるかもしれないけれど、YOASOBIさんにはそれを感じました。すごく軽やかでユーモアがあるし、音楽的にも『すごくしっかり作っているな』って思いますね。いいなと思います」
――最近の音楽の楽しみ方を教えてください。
「最近はどっちかというと、プライベートで音楽を楽しむ時間を大切にしているから、わりと新しい音楽をインプットする習慣がなくなっています。だからこそ今の音楽が新鮮に聴こえてくるというのはあるんでしょうね」
――あらためて小西さんにとって歌とは。
「今、地球上にあるどの楽器の中でも最高の“楽器”だと思います。何しろ表現力は幅広いし、言葉や表情など、その人の全てを伝えられる人類最高の楽器かな。自分の仕事は作詞作曲だと思っているので、誰かに(作った楽曲を)歌ってもらえた時が一番の喜びですね」
――最後に、作詞作曲家・小西さんから見たご自身の歌声はどんな楽器でしたか。
「また酷な質問を(笑)。鳴らない楽器だな」
□小西康陽(こにし・やすはる)1959年2月3日、北海道札幌市出身。青山学院大卒。1984年にピチカート・ファイヴを結成し、翌85年にメジャー・デビュー。代表作は『東京は夜の七時』など。2001年に解散。また作家、プロデューサーとしてSMAP、かまやつひろし、夏木マリ、小倉優子ら数多くのアーティストの作品を手掛け、『慎吾ママのおはロック』(2000年)はミリオンセラーを達成する大ヒットとなった。