引退→復帰→引退→復帰→引退…白井貴子さん波瀾万丈の人生「私はバレーが好きだったわけでなく」

元バレーボール日本代表主将・古賀紗理那さんが8月に引退会見を行ったが、同じバレーボール界では現役引退と復帰を何度も繰り返した元日本代表がいる。1976年のモントリオール五輪で金メダルを獲得した時のエースアタッカー白井貴子さんだ。72年のミュンヘン五輪で銀メダル獲得後引退し73年に現役に復帰した。その後モントリオール五輪で念願の金メダル獲得後2度目の引退。だが77年に再び復帰。ワールドカップで優勝し、翌年3度目の引退を発表した。引退と復帰を繰り返した背景に何があったのか。波瀾万丈の人生の舞台裏を聞いた

日本代表時代を語る白井貴子さん【写真:ENCOUNT編集部】
日本代表時代を語る白井貴子さん【写真:ENCOUNT編集部】

72年ミュンヘン銀引退73年復帰→76年モントリオール金引退77年復帰W杯V→78年引退

 元バレーボール日本代表主将・古賀紗理那さんが8月に引退会見を行ったが、同じバレーボール界では現役引退と復帰を何度も繰り返した元日本代表がいる。1976年のモントリオール五輪で金メダルを獲得した時のエースアタッカー白井貴子さんだ。72年のミュンヘン五輪で銀メダル獲得後引退し73年に現役に復帰した。その後モントリオール五輪で念願の金メダル獲得後2度目の引退。だが77年に再び復帰。ワールドカップで優勝し、翌年3度目の引退を発表した。引退と復帰を繰り返した背景に何があったのか。波瀾万丈の人生の舞台裏を聞いた。(取材・文=中野由喜)

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「14歳でバレーボールを始め15歳の時に20歳は無理でも24歳で迎える五輪で金メダルを目指すと決めていました。中学時代にクラスメートがみんなの前で将来の夢や就きたい職業を発表する機会があった時、私はバレーボールで金メダルを取ると宣言しました」

 中学には希望だった卓球部がなくテニス部に入部した。その後1年間バレーボール部に勧誘され続け、根負けして中2で転部した。

「バスケットボール部なら入っていませんでした。走るのが苦手でしたから。大体のバレーボール選手は走るのが嫌でバスケをやらないんです(笑)」

 冗談のような持論。最初に本格的に五輪を目指した状況を聞いた。

「17歳の時に、実業団チーム・倉紡倉敷の監督の養女になって本格的に始めました。ところがヨーロッパ遠征から帰国したら監督が解任されていたんです。72年のミュンヘン五輪の前でした。当時19歳の私は練習がきつくて辞める理由を探していたので本気で辞めようと思いました。すると当時のユニチカの監督で全日本の監督でもあった小島孝治監督が家まで来て『オリンピックに出てから辞めても遅くない』と言ってくれたんです。その言葉に代表に選ばれるかもと期待しました。そしたら代表に選ばれミュンヘン五輪で銀メダル。周りに五輪後に辞めると言っていましたし、私は五輪に出られただけで満足。朝から晩までの厳しい練習から解放されると喜んで引退しました(笑)」

 それが最初の引退。ただ気持ちに変化が出てきた。

「私は公言どおり引退して引きこもっていました。ただ、当時20歳ですから貯金が底をつき、働かないと生活できません。そんな時、テレビで72年の札幌五輪で笠谷さんが活躍する姿を見て、テーマ曲のトワ・エ・モアの『虹と雪のバラード』を聴いたら、もう1回やりたい気持ちが芽生えてきたんです」

 もう1度と思ってもどうしていいか分からなかった。

「悶々としていた時、昔、私に関心を示してくれた当時の日立の監督でその後76年モントリオール五輪の監督も務めた山田重雄監督を思い出したんです。ミュンヘン五輪のチームメートに相談すると監督とすぐ連絡が取れて『明日、前橋に来れるか』と言われました。翌日、前橋に行ったら、いきなり記者会見。その翌日の新聞は『白井貴子、日立に入社』。まるで事前に話ができ上っているようでした」

 スピード展開の舞台裏が気になる。

「チームメートが山田監督に白井から連絡があったら復帰させるには“こう言え”と伝えた台本があったようです。『日立は休みが多い、練習量は少ない、選手思い』と。全部ウソで加入後1年半1日も休みがありませんでしたけど(笑)」

 だが途中で逃げ出さなかった。

「1回引退しているから私はデスパレートな女。2回目だと“白井はわがまま”と世間から言われるのでは、と心配でしたので(笑)」

 その後76年のモントリオール五輪で念願の金メダルを獲得。

「山田監督には事前に金メダルを取ったら引退すると伝えていました。私はバレーが好きだったわけでなく金メダルを取ることが夢でしたから。競技は何でもよかったんです(笑)。連覇への意欲もゼロでした。高校も実業団も全寮制でテレビを見たことがなく世の中のことは全く知らず朝から晩までバレーボール漬け。とにかくそんな生活から解放されたかった。金メダルを取ったらバラ色の人生が待っていると周りから言われてましたし…」

 バラ色の人生は待っていたのか。

「五輪後のミーティングで言われたことは『ご苦労さま。郷里に帰っていい殿方とお見合いをして幸せな結婚生活をしてください』という言葉だけ。家に帰っても何もありませんでした」

 翌77年に再び復帰。なぜなのか。

「山田監督からの電話攻勢です。『77年にワールドカップがあるから戻って来い』と。そのうち男子の全日本監督だった松平康隆さんからも連絡が来て『五輪で金メダルを取った日本がワールドカップで金を取れなかったら国民が悲しむ』と。居候していた先輩のお姉さんにも『今まで応援してくれた国民にお返しする気持ちがあってもいい。ワールドカップ後引退すればいい』と言われたんです」

 77年に復帰してワールドカップで優勝した。すぐ引退のはずが翌年だった。

「山田監督にエースでなくてもいいとからと説得されました。でもキューバ遠征で3連敗し、もう勝てないと帰国後すぐ引退宣言しました。山田監督には80年のモスクワ五輪、その次もと言われましたが断りました。多分、山田監督は結婚して出産後もバレーボールを続けるママさん選手を育成するのが夢だったと思います。白井で可能だと証明したかったのかも」

 人によって事情は違うだろうがアスリートが引退を考えるタイミングを聞いてみた。

「自分の目標が達成できたら引退してもいいし、引退のないアマチュアなら、またやりたくなれば復帰したらいい。目標達成もそうですが、私は山田監督に『桜は咲いている時はきれいだけど散ったらきれいじゃない。きれいな時にやめたい』と言いました。周りからまだやれると言われる間に引退したいと。あとは衰えるだけですから」

 古賀紗理那選手の引退をどう感じたのか。パリ五輪前にSNSで五輪後引退の意向を明かしていた。

「事情は人それぞれ。分かりませんが自分の中で区切りをつけたのかなと思います。次の五輪は32歳ですし……旦那さんとの家庭を大事にしたいと思ったのかもしれませんし。五輪前に意向を明かしたのは、今までの集大成として頑張るぞと、自分を鼓舞したかったのかもしれませんね…」

 引退後はドラマやバラエティー番組に出演したが、その後の活動は指導者や講演中心。今後やりたいことを尋ねると「必要とされるなら来る仕事は拒まず」と笑った。大らかな性格で冗舌。今後が楽しみだ。

□白井貴子(しらい・たかこ) 1952年7月18日岡山県生まれ。中2でバレーボールを始め、68年片山女子高(現・倉敷翠松高)中退、倉紡倉敷入社、72年ミュンヘンで銀メダル獲得後、現役引退。73年に現役復帰し日立入社、74年世界選手権金、76年モントリオール五輪で金メダル獲得、その後、引退し、婚約発表したが、76年12月には婚約を解消し、77年現役復帰。同年のワールドカップで優勝。78年に3度目の現役引退。2000年に日本女子バレーで初の殿堂入り。80年代にはフジテレビ系ドラマ『時をかける少女』やテレビ朝日系『ビートたけしのスポーツ大将』に出演する人気ぶり。身長180センチ。現在はミズノバレーボールアドバイザリースタッフ。5月には芸能事務所のカロスエンターテイメント所属。

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