パリ五輪でも先鋭化した誹謗中傷、“戦犯探し”辞められない心理とは? 「人に迷惑」の日本らしさが暴走
ネット社会における誹謗(ひぼう)中傷が深刻な社会問題となって久しい。8月12日に閉幕したパリ五輪でも、試合の結果や判定を巡り、多くの選手や審判に心ない言葉が浴びせられた。なぜ人は誹謗中傷をやめられないのか。心理学の専門家とともに、歴史や文化的側面など、さまざまな角度から誹謗中傷が繰り返される日本社会の実態を探った。
パリ五輪では選手や審判への誹謗中傷が大会を通して大きな問題に
ネット社会における誹謗(ひぼう)中傷が深刻な社会問題となって久しい。8月12日に閉幕したパリ五輪でも、試合の結果や判定を巡り、多くの選手や審判に心ない言葉が浴びせられた。なぜ人は誹謗中傷をやめられないのか。心理学の専門家とともに、歴史や文化的側面など、さまざまな角度から誹謗中傷が繰り返される日本社会の実態を探った。(取材・文=佐藤佑輔)
日本勢のメダルラッシュに沸いたパリ五輪。一方で、大会全体を通して大きな問題となったのが相次ぐ選手や審判への誹謗中傷だ。
柔道では、女子52キロ級2回戦で敗退し泣き崩れた阿部詩の振る舞いが「相手への礼を欠く」として賛否に。また、男子60キロ級では準々決勝で永山竜樹が「待て」がかかった後に絞め落とされ一本負けを喫した判定を巡り、対戦相手やメキシコ人の女性審判への批判が殺到した。男子バスケットボールのフランス戦でも疑惑の判定を巡り、メキシコ出身のアメリカ人女性審判に人種や性別を差別する日本語の書き込みが多数行われた。
国際オリンピック委員会(IOC)の選手委員会は大会閉幕後の先月18日、パリ五輪期間中に選手や関係者に対してオンライン上で8500件を超える誹謗中傷の投稿が確認されたと発表。「あらゆる形の攻撃や嫌がらせを、最も強い言葉で非難する」との声明を出している。
誹謗中傷を行う側は、一体どんな心理で言葉の暴力に手を染めるのか。心理カウンセラーのマネジメントを行う一般社団法人インナークリエイティブセラピスト協会の佐藤城人代表理事は、匿名性を担保されたネット社会の発達を前提としつつ、被害者意識やゆがんだ正義感、嫉妬心、「バンドワゴン効果」と呼ばれる勝ち馬に乗りたい心理などが、複雑に絡み合っているのではと分析する。
「もともと日本人は歴史的に、玉虫色の結論が好きな責任の所在を曖昧にする民族でした。それが戦後に欧米の個人主義が流れ込み、自己責任論、ひいては問題があった他者を断罪する他者責任論が発展していったように思います」
自己責任論とは文字通り、何でも自由に振る舞う代わりに、何かあった場合には自らが責任を負うべきという考え方だ。これを「何か問題が起こったら当事者に全ての責任がある」と他者目線に転嫁した考え方が他者責任論。自己と他者とのバウンダリー(境界線)が不明瞭で、両者を混同してしまう人が陥りがちな思考だという。
「アスリートのプレーに感動する、応援しているアイドルの活躍に喜ぶ。これもひとつの自己同一化で、悪いことだけではありません。ただこの傾向が強すぎると、例えば応援していた選手が試合に負けて悔しいとき、その苦しみを昇華しようと戦犯探しを始める。アイドルの結婚報告に、裏切られたという心理になる。どちらも根底にあるのは『自分は傷ついた』という被害者意識なので、罪悪感がなく、自分でその暴力性に気づけないのが特徴です。被害者意識が強すぎると、周りが悪いのだから自分は変わらなくていいという思考にも陥ってしまいます」
他者責任論は、「正義を行使し、悪を罰したい」というゆがんだ正義感にも通じるところがあるという。
「本来、社会を良くするためには間違った行いを戒める正しさと、他者を思いやる心地よさの両面が必要なのですが、ネットの言説は正論オンリー。“正しさ至上主義”の思考は、ルールとマナーの混同を招きます。例えばコロナ禍での自粛警察の心理がこれに当たりますし、芸能人の不倫や失言もマナー違反であっても法というルールを犯しているわけではなく、ましてやアスリートに関してはただミスをしてしまっただけで何の落ち度もありません。
欧米は『正しいことをしよう』という目的志向型のマインドの人が多いですが、日本人は『迷惑をかけてはいけない』という問題回避型の思考になりがち。試しに『○○してはいけない』と10回唱えてみると心が緊張する感じがあると思いますが、問題回避型の思考習慣は交感神経を活発にし、夜眠れなくなりストレスが溜まる。余裕がなくなり、他者の行動を許容できなくなっていくのです」
「人に迷惑をかけてはいけない」という考えのもと、マナーが実質的なルールとして機能
なぜ、日本には問題回避型の思考が根付いているのか。佐藤代表理事は、長い歴史の中で儒教の教えと、欧米の個人主義がいびつな形で結びついてしまったのでは、と見ている。
「『人様に迷惑をかけてはいけない』という“正しい”考えは、一方で『お互い様』という“心地よい”寛容さと両輪があって回っていたもの。かつての隣近所が助け合う共助社会に、戦後個人主義的な価値観が流れ込み、共働きや核家族化が進行。経済成長による仕事や家事の機械化・効率化も相まって、お金さえあれば一人でも生きていける便利な世の中になりました。やがて『お互い様』の意識は薄れ、『迷惑をかけてはいけない』という正しさばかりが拡大していったのではないかと感じます。昨今の生活保護受給者へのバッシングや“子持ち様”批判なども、『お互い様』意識の薄れからくる問題と見ることもできるでしょう」
「人に迷惑をかけてはいけない」という考えは、さらに「人から迷惑な人間だと思われたくない」といった視点軸の転換を引き起こす。周囲の視線を過剰に気にする相互監視型の社会の中で、“正しさ”が至上命題となり、マナーが実質的なルールとして機能しているのが現代日本の実態ではないかと佐藤代表理事はいう。かつて“正しさ”と両輪で社会の秩序を守ってきた“心地よさ”の感性は、どのように取り戻していけばいいのだろうか。
「これは子育ての文化論になりますが、生まれたばかりの赤ん坊には心地よさしかありません。それがあいさつや箸の持ち方に始まり、段々と社会のルール、正しさを教わっていく。正しさを学んだ子どもが、反動で再び心地よさを取り戻す時期が反抗期。趣味や恋愛などやりたいことを存分にやることで、徐々に正しさと心地よさ、オンとオフのバランスを取れるようになっていくのです。
近年は聞き分けがよく、反抗期のない優等生な子が増えています。品行方正で親の期待や周囲の評価を気にする一方、間違ったことが許容できない。何かのきっかけで自己肯定感が下がると、『自分は間違っていないのに……』と被害者意識が生まれる。また、親や先生など、正しい上下関係を築くのは得意な一方、関係性が不安定な横の人間関係が苦手で、友人や恋人といった心地よい仲間を築けていないケースも多い。ときには教育の正しさから離れて、プライベートや趣味の時間を大切にするなど、心地いいものへの感度を上げていくことが大切ではないでしょうか」
被害者意識やゆがんだ正義感の高まりは、誹謗中傷の敷居を下げ、昨今では健全な批判や議論が成り立たないという状況も起きている。両者の線引きはどこにあるのか。佐藤代表理事は、誹謗中傷の定義もまた、あらためて精査し再考すべきときに来ているのではないかと指摘する。
「いじめの判断と同じで、基本的には受けた側が傷ついたら誹謗中傷とする他ないでしょう。ただ、あれも誹謗中傷、これも誹謗中傷としていたら健全な議論やアドバイスさえ言うことのできない社会になってしまいます。
『誹謗中傷』という硬い漢字表記は、本来『いじめ』などの比較的柔らかい表現と違い、絶対に許されない行為だという意味付け強める効果があります。一方で、名詞化することでレッテル貼りによる一般化が起き、『ダメ男』や『ひきこもり』のように言葉そのものがイメージ先行で一人歩きしているという側面もある。昨今はあまりにも誹謗中傷という言葉が消費され、言葉そのものが陳腐化してきてしまっている。本来の誹謗中傷を厳しく取り締まるためにも、安易な乱発は避けるべきでしょう」
欧米では言論の自由との兼ね合いから、誹謗中傷や名誉棄損の成立範囲を狭めている国も多い。実践的に誹謗中傷を減らしていくためには、どのような制度が求められるのか。
「厳罰化はひとつの対応策ですが、もともとが被害者意識や正義感でやっている以上、あくまで対処療法であり抑止力としての効果は限定的です。中には単なる愉快犯ももちろんいて、誹謗中傷を完全にゼロにすることは難しい。やはり、ダメなものはダメだと言い続ける、社会全体のコンセンサス(合意)が必要となってくるのではないでしょうか」
この国では長く、和を重んじる協調性こそが美徳とされてきた。今一度「お互い様」の意識を持ち、社会が寛容さを取り戻せる時代は来るだろうか。