26歳で左目失明、右目もいずれは…義眼のモデル・富田安紀子が悲願のパリコレへ いじめ乗り越え「今を大事に」

小学校2年生で視力に異常が出始め、26歳で病気によって左目を失明。右目についても「いずれは見えなくなる」と宣告……。壮絶ないじめの過去を乗り越えて、ファッションや芸能の舞台で躍進を続ける女性がいる。「義眼のモデル」として活動する富田安紀子だ。和太鼓師範の肩書きを持ち、ミスコン出場。東京パラリンピックの開会式にも参加経験を持つ。そんな彼女が今年9月にパリコレの企画に出演を決め、念願だったランウェイを歩く。そこには常に寄り添い、引っ張ってくれた母の存在があった。人生を悲観することなく、明るい口調で「限られた時間を全力で楽しみたいです」と語る。32歳のパワフル人生に迫った。

「義眼のモデル」として活動し、パリコレへの参加が決まった富田安紀子【写真:本人提供】
「義眼のモデル」として活動し、パリコレへの参加が決まった富田安紀子【写真:本人提供】

和太鼓師範、ミスコン出場、東京パラリンピックの開会式にも参加経験

 小学校2年生で視力に異常が出始め、26歳で病気によって左目を失明。右目についても「いずれは見えなくなる」と宣告……。壮絶ないじめの過去を乗り越えて、ファッションや芸能の舞台で躍進を続ける女性がいる。「義眼のモデル」として活動する富田安紀子だ。和太鼓師範の肩書きを持ち、ミスコン出場。東京パラリンピックの開会式にも参加経験を持つ。そんな彼女が今年9月にパリコレの企画に出演を決め、念願だったランウェイを歩く。そこには常に寄り添い、引っ張ってくれた母の存在があった。人生を悲観することなく、明るい口調で「限られた時間を全力で楽しみたいです」と語る。32歳のパワフル人生に迫った。(取材・文=吉原知也)

 岐阜で生まれ育った活発な少女に異変が訪れたのは小2の時。教科書の文字が見えづらくなった。何の気なしに目をこすっていたのだが、それを見た学校の先生は違った。親を呼び出し、視力が不調なのではないかと伝えてくれた。

「当初、病名とは異なる診断を受けました。なかなか改善せず、そこから病院を転々としました。愛知の病院で検査を受けて、目の病気について『ぶどう膜炎』だと判明しました。それでも原因不明と言われました。小学4年生の終わり頃になると、ほとんど目が見えなくなりました。1回目の目の手術をしたのもこの頃です」。ステロイドの薬を服用。一時は顔もお腹もむくみ、別人のようになってしまった。

 白内障も併発していた。右目と左目は別方向を向いてしまい、見えなくなっていく左目はどんどん萎縮して奥まっていく。人目を気にして、前髪を下ろして左目を隠すようになった。

 校舎を手探りで歩くような学校生活。小学4年生の時はクラスメートが給食を食べさせてくれるなどサポートしてくれた。あちこちの病院を探し回り、治療に関する情報をかき集めていた母は、少しでも勉強に追いつけるようにと教科書1ぺージ1ページを拡大コピーしてくれた。メガネをかけてルーペをのぞき、ようやく文字を読むことができた。

 小5で盲学校に編入したが、視力の多少の改善に伴い、1年で戻って来ることができた。だが、そこで「地獄」が待っていた。クラス替えもあって仲のいい友達が周囲にいなくなり、環境が激変。「オール無視が始まりました。足を引っかけられたり、プールで溺れさせられたり……。こっそり耳打ちして心配してくれる友達はいましたが、もう私から誰とも話すことはなくなりました」。しかし、心労の重なる両親にこれ以上つらい思いはさせたくないと、いじめについては一切口にしなかった。

 まだ幼い心に限界が来た。ある日、自宅で料理中の母が目を離した隙に、包丁を持ち出して自分のお腹に突き立てた。痛くてそれ以上力を入れることはできなかった。包丁を持っていることを母に気付かれたが、必死にごまかして、“何もなかった”ことにした。

パワフルな努力家の富田安紀子は「見えている今を大事に」と語る【写真:本人提供】
パワフルな努力家の富田安紀子は「見えている今を大事に」と語る【写真:本人提供】

反対し続けていた義眼 付けてみると「めっちゃかわいい」 前を向く人生のステップに

 中学校に進学し新しい環境になると、心機一転して学生生活を送った。おしゃれに目覚めると、「コンプレックスの塊」に。後ろ向きになってしまう自分と闘い続けた。

 介護福祉士の資格を取り、卒業後は介護施設に勤務、困難を1つ1つ乗り越えながら生活を築いていった。

 そんな彼女でも踏み切れないことがあった。左目に義眼を入れることだ。20歳の時から、主治医から話が出ていたが、恐怖感から「絶対に嫌」と反対し続けていた。

 現在でも3か月に1度の全身検査、定期的な白内障の治療を受け続けている。しかし26歳の時、この日の左目の検査はいつになくすぐに終わった。「もしかしたら……」。悪い予感は的中。左目は完全に失明していた。さらに、右目についても近い将来失明の可能性が高いと告げられる。

 ここで改めて主治医から義眼の説明を受けた。目の上にかぶせる装着型が存在することを知った。「今よりかわいくなりたいと思わない?」。主治医からこう言葉をかけられた。それでもためらっていると、ここで付き添っていた母がすかさず、「入れてください!」と叫んだ。その後、ちょっとした親子げんかになったが、母のこの一言が、前を向く人生の大きな後押しになった。

 その場で試しに付けてみた義眼。「めっちゃかわいい」。瞬間的にそう思った。「新しい人生が始まるんだ」。ワクワク感が止まらなかった。

 義眼は顔の形状に合わせるオーダーメードなのだが、最初は痛くて、5分付けては外すを繰り返し、慣らしていった。義眼を付けると、わずかに感じていた光も消えて「真っ暗な世界」になる。寝る時は外す。右目に合わせる調整が必要で、2年に1回作り替えている。今では生活に欠かせない相棒だ。

 芸能界に挑戦したのは6年前のこと。失明宣告のタイミングと重なる。決して自ら進んで門をたたいたわけではなく、母が芸能事務所のオーディションに積極的に応募したことがきっかけだ。当然、親子げんかに。しかし母は、娘に明るく生きてほしいという強い願いを持ち、奔走していた。それを知ったのは、4歳から始めた和太鼓「山代流」の師匠との会話からだ。母の行動について相談。文句を言っていると、師匠からこう諭された。「お母さんはなんで応募しているか分かる? 小さい頃から安紀子ちゃんが一生懸命に習って師範にまでなった太鼓を、芸能の世界で活躍することを通して、全国に伝えたい、世界に広めたい。そう願っているからだよ」。母の思いをかみしめ、芸能界で勝負することを決心した。

 芸能活動では、ミスコン出場やラジオパーソナリティーなど、幅広く活躍。2021年の東京パラリンピック開会式では、パラ楽団の一員として電子和太鼓を演奏。オーディションで夢切符をもぎ取った。

「『病気は神様からのプレゼント』と思うようになり、気が楽になりました」

 そんな努力家がまた新たな歴史の1ページを刻む。フランス・パリで現地時間9月28日に実施を予定している、パリコレの『ユニバーサル・ランウェイ』への参加が決まったのだ。日本のデザインチームが結成され、オートクチュールの衣装を仕立て、本場の舞台で発表する。また、パリ・ユネスコ本部への訪問も計画している。

 実業家・SDGsタレントで、今回プロデューサーを務める星咲英玲奈は「彼女の元気さとポジティブさ。障がいをネガティブに捉えず、前を向いて美しく輝いている。安紀子ちゃんは私たちにとってプリンセスです!」と目を細める。沖縄の柄と織物を使った衣装を検討しており、日本の伝統・文化を世界に伝える機会にしたいとも考えているという。

 富田は「今回は和太鼓もランウェイで演奏できることになりました。会場には目の不自由な方がいらっしゃるかもしれません。私の太鼓の音があることによって、『今ここを歩いています』と伝えられる。そうやって音で表す太鼓とランウェイの掛け合わせができるのが楽しみです」と声を弾ませる。そして、今後についても「私は過去に車椅子の友人に引っ張ってもらい、歩行の介助をしてもらったことがあります。いつかランウェイでもそんな助け合いの姿を表現してみたいです」と意気込みを語った。

 今でも視力は日によってまちまちだ。分厚いすりガラス越しに、外を見るような感覚。疲れなど体の調子に左右され、ぼやけてほとんど見えない日もある。朝起きるといつも目をやる時計があり、その見え具合がその日のバロメーターになっている。

 実は10年前に彼女の父はくも膜下出血を患い、後遺症で不自由な生活を送っている。それに、今はまだ視力のある右目が“いつか”の日を迎えるかもしれない。それでも、いつも明るい笑顔でいることのできる理由がある。

「やっぱりパワフルな母の血を引いているからですかね。母は私よりうるさいんですよ(笑)」と、ちゃめっ気たっぷりに話す。

 そして、前を向き直した。過去のいじめ被害経験に触れ、「もういじめた側の人たちのことは恨んでいません。むしろあの経験があったからこそ、いじめを受けている側の気持ちを分かるようになりましたし、SOSを出せずに苦しむことの心境を理解できるようになれました。今こうして克服することで明るくなれました」。さらに、こう続ける。「今こうやって、私の人生についてお話しできる。相手の方の顔を見て会話をすることができる。一瞬一瞬が本当にうれしい。今、見えているこの光景がうれしいんです」。

 これからも夢を追いかける覚悟はできている。「4年前の検査でも『原因不明』と言われた時、これだけ医療が進歩しているのにまだ分からないことってあるんだ、と考え方が変わりました。それからは『病気は神様からのプレゼント』と思うようになり、気が楽になりました。見えなくなる日が来るのは、90歳になってからかもしれない。それに、見えるようになるミラクルが起きるかもしれないじゃないですか! 見えている今を大事にしていきたいです」。とびきりの明るい笑顔で結んだ。

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