永瀬正敏、撮影20分前に頓挫した“幻の映画”への思い 27年越しのクランクイン「涙が込み上げて」

俳優の永瀬正敏(58)が、石井岳龍監督が安部公房の代表作を映画化した『箱男』(8月23日公開)に主演した。1997年に同じ石井監督&永瀬主演で映画化に動いたが、独ハンブルグでのクランクイン直前に製作費の問題で頓挫した経緯もある。永瀬が27年間の思いを語った。

映画『箱男』で主演を務めた永瀬正敏【写真:荒川祐史】
映画『箱男』で主演を務めた永瀬正敏【写真:荒川祐史】

生誕100年迎えた安部公房の代表作を映画化

 俳優の永瀬正敏(58)が、石井岳龍監督が安部公房の代表作を映画化した『箱男』(8月23日公開)に主演した。1997年に同じ石井監督&永瀬主演で映画化に動いたが、独ハンブルグでのクランクイン直前に製作費の問題で頓挫した経緯もある。永瀬が27年間の思いを語った。(取材・文=平辻哲也)

『箱男』は、最もノーベル文学賞に近い作家とも言われた世界的な作家・安部公房(1924~1993)が1973年に発表した代表作の一つ。カメラマンという職業、社会的な地位を捨て、ダンボール箱を被った箱男である“わたし”が主人公。「箱男」は一見、落伍者のように見えるが、箱の穴から社会をのぞき、優越感に浸っている。そんな“わたし”の前に、箱男になろうとするニセ医者(浅野忠信)、完全犯罪に利用する軍医(佐藤浩市)、“わたし”を誘惑するナゾの女(白本彩奈)が現れる……。

 安部公房生誕100年のメモリアルイヤーでの公開になったが、映画化は27年がかり。97年にはドイツとの合作で、わたし(永瀬)、ニセ医者(佐藤)出演でハンブルグで撮影されるはずだったが、撮影直前に日本側で製作資金の問題が発生し、頓挫したのだった。

 永瀬は今も、その日のことをはっきりと覚えている。

「その日、僕はハンブルグの町でスチールを撮る日だったので、僕としてはその日クランクインするつもりだったんです。早めにドイツに入って、監督からはポラロイドカメラを渡されました。『これで箱男の目になるまで、毎日写真を撮ってください』と言われ、撮り続けたんですが、『まだまだだね』とOKをもらえず、やっとその前日に『これは!』というものが撮れて、監督に『これだよ!』と言っていただいたんです」

 ホテルロビーにスタッフが集まり、ロケバスで出発しようという瞬間に、プロデューサーが来て、石井監督だけが別室に呼ばれた。

「僕は撮影の許可取りの打ち合わせか何かかなと思っていたら、しばらくしたら、ロビーの外に歩いて遠ざかっていく石井監督がいたんです。その後ろ姿は一生忘れないでしょう。肩を落としている風でもなく、淡々と歩いていた。出発の時間なのに、監督はどこに行くのかと思ったら、プロデューサーさんがロビーに来て、『今日でこの映画を中止します』と。僕からすれば、撮影の20分前に中止を言われた感じだったんです」

 永瀬自身は突然の中止をどう受け止めたのか。

「どこに気持ちを持って行っていいのかが全く分からなかったです。企画がなくなることは何度も経験していましたけど、当日、しかも20分前に中止と言われたのは初めてのことで、しかもドイツまで来ているわけですから。ドイツ側のスタッフのみなさんが『また会いましょう』パーティーを開いてくれて……それで救われた気もしていました」

 帰国後は体調がおかしくなった。喉にピンポン玉の半分が詰まっているような違和感があり、食べることも水を飲むこともできなくなったのだ。

「腫瘍ができたと思って、病院にも行ったのですが、『喉はきれいだ』と言われ、『精神的な問題かもしれない、よくあるんです』と言われ、入院して、点滴を受けることになりました。そんなことがあって、僕自身も相当ダメージが来ていたんだなと驚きました」

世界的にも例がない“再集結”した映画作り

 石井監督作品への出演はその後、『五条霊戦記 GOJOE』(00)、『ELECTRIC DRAGON 80000V』(01)、『私立探偵 濱マイク』第8話「時よとまれ、君は美しい」(02/NTV)、『DEAD END RUN』(03)、『蜜のあわれ』(16)、『パンク侍、斬られて候』(18)と続いていく。

「お会いする度に、監督は『箱男』の話をしていらして、『まだ諦めていないから』と何度もおっしゃっていました。今回の企画も、27年後にぽっと成立したわけではなくて、何回も立ち上がっては消え、10年前にも形になりそうな時があったのですが、その時もダメで、今回ようやく成立したんです」

 クランクインは群馬・高崎市で迎えた。

「街中に箱男が潜んでいるというシーンでした。準備して現場に呼ばれるまではちょっと不安感もあったんです。いよいよという瞬間、そばには一緒に何度も箱を作ってきた美術監督の林田裕至さんがいらっしゃって、何とも言えない気持ちでした。『箱の中に入ってもらえますか』と言われて、箱の中から27年前とまったく体型が変わらない監督を見て、『リハーサル行きます』という言葉を聞いたら、涙が込み上げてしまって、必死にこらえていました」

 27年の時を経て、同じ監督、同じ役者でもう一度、映画が作れるというのは世界的にも例がない。

「インタビューを受ける中で気づいたんですが、これは『箱男』という原作がやっと時代に追いついたということなのかもしれない、と思っています。しかも、今年は安部公房さんの生誕100年。天国の安部さんも27年前は『まだ早いかもよ』と念を送っていたのかもしれません」

『箱男』は、箱という“匿名”をかぶることで、社会の見え方が変わる可能性を提示している。そのテーマは誰もが匿名を手に入れられるネット時代の今の方が浮かび上がってくるかもしれない。

「匿名性、不条理感は現在の方が増していて、しっくりとくるので、それをキャッチしてくださる観客のキャパシティーの大きさも変わっているとは思います。それが全ての皆さんに通じるかは分かりませんが、その確率は増えているんじゃないかと思います」と令和の『箱男』に期待を込めた。

□永瀬正敏(ながせ・まさとし)1966年7月15日、宮崎県出身。相米慎二監督『ションベン・ライダー』(83)でデビュー。ジム・ジャームッシュ監督『ミステリー・トレイン』(89)、山田洋次監督『息子』(91/日本アカデミー賞最優秀助演男優賞受賞他)など国内外の100本以上の作品に出演し、数々の賞を受賞。台湾映画『KANO~1931海の向こうの甲子園~』では、金馬映画祭で中華圏以外の俳優で主演男優賞に初めてノミネートされた。河瀨直美監督『あん』(2015)、ジム・ジャームッシュ監督『パターソン』(16)、河瀨直美監督『光』(17)ではカンヌ国際映画祭に3年連続で公式選出された初の日本人俳優となった。近年では、『星の子』(20/大森立嗣監督)、『百花』(22/川村元気監督)、『GOLDFISH』(23/藤沼伸一監督)など多くの話題作に出演している。

次のページへ (2/2) 【写真】映画『箱男』の場面ショット
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