癒やしボイス1位のFMパーソナリティー・浜崎美保、「家なしコネなし」から這い上がった上京物語
午後5時、ラジオから聴こえる心地よいボイス。持ち主は浜崎美保だ。彼女は鹿児島県で人気のローカルタレントだったが、「上京して、広い世界で活躍する」と決意。2009年に故郷を後にした。何のコネクションもない中、1つのオーディションに参加し、実力で番組レギュラーを勝ち取った。癒やし系のビジュアルと声、ガッツ、行動力で階段を駆け上がったパーソナリティーの素顔に迫った。
TOKYO FM『Skyrocket Company』で“秘書”
午後5時、ラジオから聴こえる心地よいボイス。持ち主は浜崎美保だ。彼女は鹿児島県で人気のローカルタレントだったが、「上京して、広い世界で活躍する」と決意。2009年に故郷を後にした。何のコネクションもない中、1つのオーディションに参加し、実力で番組レギュラーを勝ち取った。癒やし系のビジュアルと声、ガッツ、行動力で階段を駆け上がったパーソナリティーの素顔に迫った。(取材・文=一木悠造)
「本当に“心をくすぐる声”だ」。取材のきっかけは、ラジオから聴こえてきた浜崎の「声」だった。TOKYO FM『Skyrocket Company(スカイロケットカンパニー)』(略称スカロケ、月~木曜午後5時)でも、メインMCのマンボウやしろと軽妙で緩やかなトークを繰り広げている。番組上での立ち位置は「秘書」。ラジオ関係者から「ミルキーボイス」とも評される浜崎の声はどのように育まれ、誰に「発掘」されたのだろうか。
「自分ではそんなに特別な声とは思っていなかったんです。ただ、子どものころはよく声色を真似されていましたね。成長していくにつれて声が少しずつ変わっていきました。キーキーしていた声が落ち着いてきた感じですね。地元鹿児島のラジオ局の番組で“初鳴き”したんですけど、番組でご一緒したDJさんが『すごい武器になる声だと思うよ』と言ってくださったんです。それまでは全く意識せず、音楽、歌の道を目指していました。そして、地元で所属していた事務所の社長が『歌をやりたいのなら、ラジオは常に音楽があるから一番い環境だと思うよ』と言ってくださったのが、“しゃべり出し”のきっかけでした」
10代の頃は「大きなステージで歌う人になりたいな」と漠然と考え、ダンスボーカルグループやユニットを組み、ソロでも歌っていた。そして、ユニットの作曲家志望だったメンバーが『上京して作曲する』と言っていたことで、浜崎も自身の夢をあらためて考えたという。
「メンバーは当時、音楽系専門学校の生徒でした。浜崎あゆみさんのことが大好きで『上京して曲を書くんだ』と公言し、実際に上京しました。私は地元で6年間、モデルやタレントをしながら、テレビ、ラジオ、歌と何でもさせてもらえたんですけど、『この時期が来たらこの仕事があって』という1年のスケジュールが全部見えていたので、『これ以上の世界はないかな』と感じていました。そして、『同じ世界での仕事を繰り返していくのか?』『ご飯を食べていけないかもしれないけど、東京という新しい世界に飛び込むのか?』と自問自答し、『東京に出る』の一択になりました」
ただ、レギュラー番組を持っている。「途中で辞めたらどうなるんだろうか」などと考え、悶々とする日々が続いた。そんなある日、事務所の社長に呼び出された。
「ファッションショーのリハーサルをしている時に、社長から『美保、今日、おかしくないか。思っていることあるんじゃない?』と言われました。正直に言うと、二日酔いだったんですけど、私は『ここだ』と思い、『上京したいです』と宣言しました。二日酔いだとは言わずに(笑)」
地元鹿児島で人気タレントの地位を捨て、居候のアルバイト生活
当時25歳。年齢的なことも考えてのアクションだったという。
「『25歳で地元を出なかったら、一生出ないだろうな』とピンと来た年齢。私にとっては、それがたまたま25歳でした」
その熱い思いを社長も認め、浜崎は上京した。相棒はキャリーケースとバッグだけ。仕事面での人脈が全くない中、身ひとつでの“人生を懸けた上京”だった。
「『東京に着いてから家探し』と思い、見つかるまでは幼なじみの家に居候させてもらいました。貯金は少ししかなく、『数か月で底をつく』と思ったので、まずはアルバイト先を探し、並行して事務所を探しました。幼なじみの家での暮らしは楽しすぎて夢のような毎日でした。でも、1か月半ぐらいたつと2階に住んでいる彼女のお姉さんが、物件情報を持ってくるようになったんです(笑)。そこから急いで家を探して、2週間後には引っ越し。一人暮らしが始まりました」
アルバイトで生活費を稼ぎながら、自宅でプロフィール資料を作って送る。そんな日々が続き、ある事務所への所属が決定。しかし、そこを1年で離れている。
「男性俳優が中心の事務所だったんですが、女性を所属させたいタイミングの時だったみたいです。その流れで採用していただきました。ただ、『仕事を待つ』という姿勢が地元にいる時と変わらないなと、オーディション情報も事務所に届くもの以外のものもありました。『だったら、自分で動いた方が早いんじゃないかな』と思い、『もう、更新しません』と伝えました」
新たな事務所には入らず、選んだ「フリー」の立場。1つの出会いと自身の行動が、幸運を引き寄せた。
「ずっと東京のラジオ番組に関係するオーディションを受けたかったのですが、情報もない状況でした。そんな中、TOKYO FMの方とお会いするきっかけがあり、後日、プロフィールやボイスサンプルを勝手に郵送しました。その後、何の音沙汰もなかったのですが、半年以上たったある日、突然連絡が来たんです。『4月から始まる新番組があって、今、アシスタントを探しています。オーディションを受けますか』と。もう、二つ返事で『受けます』とお答えしました」
オーディション合格も、MCからはまさかの「NG」
それが、2013年にスタートした『スカロケ』のオーディションだった。
「MCに決まっていたマンボウやしろさんと番組の収録をするというオーディションでした。参加者は、キャスター事務所に所属している方がほとんどで、私だけが個人での参加でした。なので、『控えめにいってはダメ。印象を残さないと勝ち残れない』と思い、前に出ちゃっていました。正直、手応えはありました。普段からTOKYO FMを聴いていたので、オーディションの中で、長いパブリシティを読むテストもあったのですが、初見で1度も噛むことなくきちんと読めました。普段、聴いていた情報だったので」
だが、やしろは番組側に「浜崎さんだけはやめてください」と告げていたという。
「今でも番組中にエピソードトークとして出てくるんですが、理由はいろいろあったそうです(笑)。それでも、番組立ち上げスタッフの放送作家さんが『相性が悪いもの同士くっつけた方が面白いんじゃないかな』ということで、『やしろさんが唯一、一緒にやりたくない浜崎さんにしてみようよ』という流れだったようです。こうして、私は晴れて『秘書』になりました。ただ、番組が始まった後にその事実を知らされた時は衝撃でした(笑)」
そして、番組は4月で12年目に入った。単身で上京した浜崎は同番組をきっかけに、多くのラジオ好きに認知された。この間には、先に上京した作曲家志望のかつての仲間が手掛けた楽曲を紹介したこともあった。
「仲間は私より1年早く上京して、数年後に『浜崎あゆみさんに曲を作る』という夢を見事にかなえました。『TODAY』という曲で、番組でその曲を私とのエピソードとともに紹介して流すという“エモい瞬間”もありました。『お互い頑張って来れているね』と確認し合えた日でもありました」
さまざまな刺激を受けながら、浜崎は東京で活躍の場を築いてきた。その原動力は「好奇心」。だが、リスナーに対しては「力を抜いてあげたい」と思っている。
「番組を通して皆さんを『笑顔にしたい』『元気にしたい』とかではなくて、『何か頑張り過ぎた人たちの力を抜いてあげたい』っていう感じですね。自分の役割って、そっちなのかなと」
文字通り、癒やしを与える立場。それを求める人たちがリスナー以外にも出てくるのに伴い、浜崎の活動域は広がりつつある。
「実は多趣味で立ち飲みや空手など、自分からいろいろな世界に触れています。その世界で極めている人に会えることが面白くて、『新しい扉』を常に開き続けています。今、仕事面ではちょっとバラエティー寄りのポジションを求められがちですが、知識や見識も年齢とともに深め、『重み』も出していきたいです。社会問題などニュースを伝えることなどにも挑戦していきたいですね。才能の塊の皆さんに囲まれながら、少しでもその刺激を味わいながら、新しい世界をまだまだ見ていきたいなって思っています」
人生を懸けた上京でサクセスをつかんだが、立ち止まるつもりはない。愛する番組『スカロケ』を大事にしつつ、仕事でも『新しい扉』を求めていく。
□浜崎美保(はまさき・みほ)鹿児島県生まれ。モデル・タレントとして地元メディアを中心に活動後、拠点を東京へ。TOKYO FM『Skyrocket Company』では、2013年の初回からパーソナリティーを担当。21年には株式会社ベイニッチが実施した調査【癒される声だと思う夕方のラジオパーソナリティーランキング】で女性部門第1位。趣味は野球観戦、ランニング、はしご酒、乾杯。165センチ。