コロコロのレジェンド漫画家・のむらしんぼが誕生するまで 持ち込みも門前払い…苦難だらけの下積み時代

ギャグ漫画の歴史を築いた往年の人気漫画『つるピカハゲ丸』は、「月刊コロコロコミック」などで1985年から95年まで連載されていた人気作だ。作者は『とどろけ!一番』(80年~83年)などでも知られるのむらしんぼ先生。“くだらない”を詰め込んだかのようなギャグ漫画を生み出した「のむらしんぼ」という漫画家の誕生までを聞いた。

苦難の連続だった下積み時代を語ったのむらしんぼ先生【写真:ENCOUNT編集部】
苦難の連続だった下積み時代を語ったのむらしんぼ先生【写真:ENCOUNT編集部】

『つるピカハゲ丸』で一時代を築いたのむら先生の歩みとは

 ギャグ漫画の歴史を築いた往年の人気漫画『つるピカハゲ丸』は、「月刊コロコロコミック」などで1985年から95年まで連載されていた人気作だ。作者は『とどろけ!一番』(80年~83年)などでも知られるのむらしんぼ先生。“くだらない”を詰め込んだかのようなギャグ漫画を生み出した「のむらしんぼ」という漫画家の誕生までを聞いた。

「漫画で育ってきて、漫画しかなかったんです」。幼少期の夢は落語家、ディスクジョッキー、漫画家の3択だった。

 小学生だったのむら少年は、40円を握りしめて「少年サンデー」、友人が「少年マガジン」、交代で「少年キング」を購入し、読みふけっていたという。「漫画家を志したきっかけは藤子不二雄。『オバケのQ太郎』ですね。僕は少年サンデーでずっと育ってきました」。当時は友人と見よう見まねでSFをテーマにした鉛筆漫画も描いていた。

 しかし、中学、高校と進むにつれて「ちょっとずつ漫画熱が冷めてきた」。進学校だったこともあり、勉強やテニス部の活動に励んでいた。

「高校卒業時は、漫画家になろうとは思っていなかったんですよ。語学が好きだったんです。映画『ロミオとジュリエット』を何度も見に行って、しゃべれたわけではないんだけど、ストーリーが分かってるから、簡単な英語が身についていたんですよ。エンドロールで翻訳者の名前が出てきて『かっこいいな』って憧れて。19歳で英検の2級も取りましたね。当時は同時通訳か翻訳家になりたかったです。エンドロールに『のむらしんぼ』って憧れでしたね。

 一浪して、19歳で大学1年生になって、キャンパスを歩いていたら、いきなり止められたんです。それが『E.S.S.』の勧誘でした。僕は漫研に入るつもりでしたが、気付いたら先輩に言いくるめられて入部してました(笑)。でも1~2年たったとき、『こんなことしてる場合じゃない』と思ったんですよ。当時の先輩たちが就職活動をしていて、名だたる企業の名刺を見せあっての自慢合戦だったんですよ。それを見たときに『この人たちのやりたいことってなんなんだ。俺はこうはなりたくない』って。そしたら、やっぱり漫画を描きたいって気持ちに戻ったんですよね。

 もう1つのきっかけは、先輩に勧められた『きりひと讃歌』でした。それまで漫画から離れていたので、頭の中は少年サンデーで止まっていたんです。初めて青年漫画を読んだら、めちゃくちゃ面白くて。最後のシーンでは涙ボロボロでした。いろんな小説も読んできましたが、それ以上だと思ったんです。『ああ、こういう世界を漫画でも描けるんだ』って。漫画を好きになったきっかけは藤子不二雄先生で、その記憶を呼び起こしてくれたのが手塚治虫先生でしたね」

 紆余曲折の末に、漫画研究会に入ったのむら先生。当時、漫研の雰囲気にうまくなじむことができなかった。

「漫研に入って思ったのが、『ここは漫画愛好会だな』ということでした。次第に幽霊部員になっていきました。でもある日、友人と学食で飯を食っていたら、『お前は漫画家になれる』と突然言ってきたんですよ。漫研内では『絵が下手』と言われていたので、びっくりしたんです。でも、その友人は『俺には分かる。お前は目が本気だ』って。すごい言葉でした。この言葉には勇気をもらいましたね」

 その後、似顔絵のアルバイトをしていた大学4年生の頃に、後に『島耕作』シリーズでおなじみとなる弘兼憲史氏から声を掛けられた。それを機に縁にも恵まれ、働くこととなった。

「弘兼先生のところでアシスタントやっていた頃に『お前は話が作りたくて漫画家になりたいのか。絵が描きたくて漫画家になりたいのか』と聞かれたんですよ。僕はすかさず『そんなの当たり前じゃないですか! 話が作りたいんです!』と答えました。そしたら先生が『お前は大丈夫だ』と一言くれました。『絵を描きたい』と答える人が多いんですよね。本も読んでいなければ、修行もしていない。妄想もできないから、話を作るときに壁にぶち当たる人が多いんです。僕の持論ですが、ストーリーを作ることだったり、妄想力は若いうちに鍛えておかないといけないですね」

渾身の作品を持ち込むも門前払い…「世界が灰色でしたね」

 漫画家への夢に向かって歩き始めたのむら先生。最初の挑戦は「週刊少年ジャンプ」だった。

「19歳の頃に小林よしのり先生の『東大一直線』を見て、『こんな下手な絵で漫画ができるんだったら、俺にも描ける』と思ったんです。これはご本人にも伝えたことあるので安心してください(笑)。それで『くそガキませ太』という読み切りを描いて、集英社の漫画賞に応募しました。何かしらで名前ぐらいは載るんじゃないかなとワクワクしていたら、かすりもしなかったです(笑)」

 その後、弘兼先生のもとで成長を重ね、次なる挑戦は小学館新人コミック大賞だった。「当時が第1回でしたね。そこで『仙ちゃの夏』ってのを出したんですよ。当時、ヒロカネプロで同僚だった柴門ふみが褒めてくれました。最終選考の17人には残ったけどだめでしたね」。

 めげることなく、作品を描き続けたのむら先生は再度、少年サンデー編集部に漫画を持ち込んだ。それが月刊コロコロコミックで後に連載することとなる『ケンカばんばん』だった。

「1978年の12月にサンデーに持ち込みました。当時、対応してくれた編集者さんは、僕の漫画を見た後、名刺すらもくれずに『今何をやってるの?』と聞いてきたんです。僕が『立教大学の漫研です』と答えたら、『だったらちゃんと勉強して、卒業して、普通の道を歩いた方がいいよ』とバッサリでした。もう世界が灰色でしたね。『なんでこんなに頑張って、漫画家を目指してるんだろう』と真っ暗でした。その後、アパートで3日間、風呂も入らずに寝込みました(笑)。でも起き上がると、もう次の話を描いてたんです。

 次は翌年の2月に持って行きました。そしたら編集者さんが『え、君こないだ来たよね?』とびっくりしながら、『2か月でこれ描いたの?』って。それで初めて名刺を渡してくれて『やってみるかい?』と言ってくれたんです。本気のやつには敵わないってことだったんでしょうね。試されていたんだと思います。

 次の第2回小学館新人コミック大賞でも最終選考まで残りました。ある日、ヒロカネプロで3日ほど泊まり込みで働いた後、ヘトヘトになって自分のアパートに帰ると、1枚のハガキが届いていたんです。『第2回の小学館新人コミック大賞の作品を見ました。ぜひ君と会って話したいので連絡ください』って。最後に、コロコロコミック平山隆(後の3代目編集長)と書かれていました。

 まだ、コロコロコミックが創刊したばかりの時期でした。当時は小学館の第一企画室というところでしたね。学年誌の編集者が集まっている企画室。ほぼ同時期に、弘兼先生から『お前、サンデーの三宅(克)さん知ってるか? お前に会いたいって言ってる』と言われたんですよ。いざ会ってみたら、『君の漫画を見たけど、サンデーではちょっと幼すぎる。今度、小学館でコロコロコミックに力を入れるから、そっちを紹介するよ』って。僕が『平山さんからもハガキが来ました』と答えたら、三宅さんは『来る必要なかったね』と笑いながら帰っていきましたね」

 こうしてのむら先生は月刊コロコロコミックで待望の連載『ケンカばんばん』をスタートさせ、プロの漫画家としての道を歩み始めたのだった。

(続く)

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