道場破りをことごとく返り討ち “パラエストラCNW”が日本屈指の名門ジムになるまで 鶴屋浩代表を直撃

総合格闘技界では知らない人はいないと言っても過言ではない名門ジム・パラエストラ千葉ネットワークは所属するプロ選手は50人以上、ジム会員数は500人ほど抱えている。扇久保博正らRIZINファイターに神田コウヤなどDEEP王者を輩出。今年2月にはキッズから同ジムでトレーニングを積んでいる鶴屋怜が世界最高峰のUFCとの契約を勝ち取った。そんなメガジムが今年4月から「THE BLACKBELT JAPAN」に生まれ変わる。約25年、チームを率いてきた鶴屋浩代表に“パラエストラ千葉ネットワーク”について話を聞いた。

インタビューに応じた鶴屋浩代表【写真:ENCOUNT編集部】
インタビューに応じた鶴屋浩代表【写真:ENCOUNT編集部】

消防士をやりながら格闘技選手をしていた鶴屋浩代表

 総合格闘技界では知らない人はいないと言っても過言ではない名門ジム・パラエストラ千葉ネットワークは所属するプロ選手は50人以上、ジム会員数は500人ほど抱えている。扇久保博正らRIZINファイターに神田コウヤなどDEEP王者を輩出。今年2月にはキッズから同ジムでトレーニングを積んでいる鶴屋怜が世界最高峰のUFCとの契約を勝ち取った。そんなメガジムが今年4月から「THE BLACKBELT JAPAN」に生まれ変わる。約25年、チームを率いてきた鶴屋浩代表に“パラエストラ千葉ネットワーク”について話を聞いた。(取材・文=島田将斗)

◇ ◇ ◇

――そもそもパラエストラ千葉ネットワークはどのように始まったのでしょうか。

「パラエストラは1997年に中井祐樹さんが作った柔術とMMAを中心にやっていく団体です。私は格闘技をやりながら消防士をしていましたが、99年に消防をやめて格闘技ジムをやろうと考え始めました。当時はウエート場の2階部分を借りて週に2回ぐらい格闘技ジムのお手伝いをやっていたんです。

 同時期にPRIDEが全盛期だったので道場を出そうということになったのですが、自分には格闘技界に知り合いがいなかった。そのときに中井さんに相談したんです。そこでパラエストラの松戸支部なんていいんじゃないのとなって設立されたのが始まりです。その時点で7番目のパラエストラでした。いろんな人と楽しみながら強くなれる道場。“マーシャルコミュニケーション”に弟子の松根良太と共感してスタートしました」

――他のジムとの違いは何だったのでしょうか。

「中井さんの柔術が教われる。どちらかと言うと寝技よりのMMAジムでしたよね。あとは誰でも受け入れます。楽しみながら強さを追求していくところが強かったジムだと思いますね」

――会員はすぐに集まってきたのでしょうか。

「当時は15坪くらいしかなくてすごい狭いジムだったんですよね。消防あがりでそのまま始めたので、私の資金もなかった。ただジョイントマットを敷いた小さいジムです。千葉県内にMMAジムは津田沼にしかなくて、PRIDEブーム、柔術のグレイシーが勝率をあげていたのもあったので、たくさん集まってはきましたよね。毎日見学者がいました。

 それでも毎日夜中に50ccのバイクに乗ってポスティングをしたりしていたんです。僕もさすがに体が持たなくて、たまに松根(良太=現パラエストラ沖縄代表)にやってもらったり(笑)。いまはダメだけど壁に貼ってましたね……。そのかいあってか銚子から2時間かけて通う会員さんもいましたね」

パラエストラ柏道場の入り口に貼ってあったシール【写真:ENCOUNT編集部】
パラエストラ柏道場の入り口に貼ってあったシール【写真:ENCOUNT編集部】

“パラエストラ”とは「団結力が強い集団」

――いまでこそ「楽しく練習」は浸透していると思いますが、当時は珍しかったのではないでしょうか。

「そうですね。友好的な会員さんがほとんど。それでも最初は柔道の強豪でやってきた選手、空手の全日本クラスの人がどんどん集まってきて道場破りみたいなのもあったんですよ。『強い人いるんですか?』『スパーリングやってもらえますか?』みたいなのはすごくありました。

 僕も当時は29歳。道場生も見てるから、道場破りを全部相手して、ことごとく倒してきました。で、それが終わると仲間になるみたいな。『ジムの代表はちゃんとしてるんだ』って認めてもらって、それから一緒にチームとして戦っていく感じでしたよね。未だに日体大出身の100キロ級の“道場破り”とは付き合いがあります(笑)」

――ジム運営が厳しい時代はなかったのでしょうか。

「全く会員が集まらなかった時期もありましたよ。松戸の次に千葉を出したんだけどもすごい少なくて困った。ポスティングを毎日のようにやりました。あとは当時うちのチームは強くなかったんだけど松根だけは強かった。僕は柔術で頑張りながら、松根の快進撃が始まって修斗世界王者になった2003年あたりから少しずつ増えてきましたね。

 会員獲得が特にきつかった時期はどちらかと言うとガツガツやっていた時期。僕も入会してきた会員さんに対してそっけなかったし。いま500人くらいいますけど、これだけ集まったのはここ3~4年くらいですよね。いまはフィットネスみたいなのはやってますけど、当時はそうじゃなかったですからね」

――現在どれだけのプロ選手がいるのでしょうか。

「いままで大体200人は輩出してきました。現在は50人以上プロがいます。そういう環境で1日2回のプロ練習を月曜日~土曜日まで毎日やっています。柏道場で人が多くて危険なときは、1階と2階に分けてやっていますよね。本当にぜいたくな話ではあるんですけど」

――約25年、鶴屋代表が作ってきたパラエストラ千葉ネットワークとは何でしょうか。

「仲間意識ですね。ファミリーまではいかない、どこもそうなのかもしれないけど試合があればみんなで応援に行って、勝ったら泣いて喜んで次の大会に向けて頑張るみたいな。そういう団結力が強い集団ですね」

――先日は鶴屋怜選手のUFC契約もありました。代表として1番心に残っている瞬間は何ですか。

「やっぱり松根良太が修斗の世界王者になったときですね。あの感動は他にないです。僕らみたいな小さなジムから松根という天才的な選手が出てきて、彼が王者になったときは応援団も150人くらい行きました。終わったあとにはみんなで当時の道場で打ち上げ。朝までお祝いした思い出がありますね」

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