中卒の元アイドル・高橋都希子さん、引退・結婚経てIT企業広報に転身 SNSで“芸能力”発揮「爪痕残したい」
義務教育の中学を卒業後、決断したのは「アイドルの夢への全力疾走」。13歳で芸能界に入り、思い切った米国留学を経験、アイドルブームの黎明期を駆け抜けた。25歳で卒業。結婚のライフイベントを経て、現在はIT企業の広報部課長職に奔走する異色のビジネスパーソンがいる。CLINKS株式会社の高橋都希子(ときこ)さんだ。TikTokの企業公式アカウントでは、現役時代さながらのキュートな踊りも披露。34歳の輝く“転職人生”に迫った。
竹下通りでスカウト、“学園祭アイドル”に 総務部のアルバイトから出世階段
義務教育の中学を卒業後、決断したのは「アイドルの夢への全力疾走」。13歳で芸能界に入り、思い切った米国留学を経験、アイドルブームの黎明期を駆け抜けた。25歳で卒業。結婚のライフイベントを経て、現在はIT企業の広報部課長職に奔走する異色のビジネスパーソンがいる。CLINKS株式会社の高橋都希子(ときこ)さんだ。TikTokの企業公式アカウントでは、現役時代さながらのキュートな踊りも披露。34歳の輝く“転職人生”に迫った。(取材・文=吉原知也)
小学4年の頃に『SPEED』に憧れ、芸能プロのスクールに通ってダンスや歌の練習に明け暮れた。芸能関係者の目に留まろうと、東京・原宿の竹下通りに繰り出したことも。13歳の時、たまたま母と姉と食事をしに行った際、竹下通りを歩いていたところをスカウトされ、アイドルの道に。中1の秋、既存グループに加入した。
学園祭を回り、福岡や広島など全国の大学のステージに立った。他のメンバーは当時17、18歳で“お姉さん”とも言える歳の差。中学生ながらライブでのMCを任されることもあり、「私は大人っぽく見えたそうで、当時よく『18歳』と言われていました(笑)。周りの大人やファンの皆さんと接することで、年上の方とのコミュニケーションの取り方、言葉遣いや誤解なく物事を伝えることについて勉強させていただきました」と振り返る。
最初に入ったグループが解散。中3年の冬に、新規に立ち上がったアイドルグループに加わることになった。ここで、人生の大きな決断をする。中学卒業後の進路をアイドルに定めたのだ。
「芸能界で有名になりたい。それだけの思いでした。高校に進学することは自分に保険をかけることだと、当時考えていました。『この世界、一本でやりたい』。強い思いでした」
決断の裏には、両親のサポートがあった。ライブで帰りが遅くなる時の送迎、ライブ会場に来てくれての熱い応援。常に背中を押してくれた。「中途半端になってしまうのなら、徹底的にやりなさい」と、決断に理解を示してくれた。
新天地のグループではアニメやゲーム主題歌を担当し、CDデビュー。地方テレビ局のバラエティー番組への出演やグアムロケに加えて、個人としてはタイで撮影したグラビアDVDの発売も。芸能活動は着実にステップアップしていった。
ライブがメインの活動で、年間200~300本のステージに立った。「平日は週約2回、土日は2本、3本回しでした。生活との両立が必要で、週3ぐらいで朝6時から午前10時までマクドナルドでバイトしていました」。クリスマスも年越しも公演。いわゆる青春時代は「なかった」。多忙な日々でも心から楽しめた。笑顔を絶やすことはなかった。
3年間突っ走って、心の中にある変化が生じるようになった。「ただライブをこなすだけ。マンネリ化を感じました。何かを変えたい。この世界しか知らない私がどうするべきか悩んでいた時に、両親から留学を勧められました」。行き先は、エンターテインメントの本場・米国。武者修行が18歳の新たな決断となった。
ニューヨークでスクールに通い、入寮。その道のプロフェッショナルからダンスと歌唱の手ほどきを受けた。英語も何も分からないまま飛び立った。歯を食いしばって、トレーニングに励んだ。有名振付師から指導を受けたことも。同じスクール生の数人が後に、世界的な女性アーティストのバックダンサーになった。
当初は深刻なホームシックにかかった。食文化の違いにも戸惑った。「毎日毎日、手帳にバツ印を付けて、『あと何日で帰れる』と願っていた日もありました」。留学費用は両親が工面してくれた。両親への感謝の思いをかみしめながら、多くの刺激を受け、パフォーマンスの極意を吸収していった。
1年間の留学を終え、帰国。アイドル活動を再開させた。ユニットを経て、4番目のアイドルグループと巡り会う。“かっこいいアイドル”を理想に掲げる既存グループに加入した。米国での修行を経て、スキルの向上だけでなく、精神的にゆとりを持てるようになった。「それまでは『ここでミスったらどうしよう』『嫌われたらどうしよう』と不安に駆られることもありましたが、『失敗してもいいや』と思えるようになりました。自分はまだまだ小さい存在で、世界は広いんだ。なんとかなる。そうやって自信を持てるようになったんです」。マイクパフォーマンスにも磨きがかかった。
そして、25歳の時、再び決断する。アイドル活動の引退だ。所属グループとしてもどこか息詰まりを感じ、メンバーで話し合い、解散することになった。自身としても芸能界卒業を決めた。2015年3月、12年間のアイドル活動に終止符を打った。
亡き父との思い出の曲を「ステージで歌わせてもらいました」 アイドル活動の区切りに
実は人生にとって大きなターニングポイントを迎えていた。「その数年前に父を亡くしました。白血病の闘病生活を送っていて、リスクがあるのにマスク姿でライブの応援にも来てくれていました。ワンマンで行ったグループの解散ライブで、父との思い出の曲をステージで歌わせてもらいました。私にとって、1つの区切りになりました」。アイドルとしてのラストステージは何よりも特別なものになった。
自分自身はどう生きていくのか。1人の女性として、人生を広い視野で考えるようになった。「周囲の友達が次々と結婚していき、『私もしたいな』。そう思うようになりました」。アイドルを引退後の15年夏に結婚した。
それと同時に就職、社会人として新たなスタートを切った。知人の紹介で現在勤めるIT大手に入社した。「総務部のアルバイトから入りました。もともとパソコンが得意で、アイドル時代はイラストレーターを使ってグッズのデザインも手がけていたんです。今の会社に入ってから、電話応対をはじめ、社会人としてのマナーや一般常識などたくさんのことを学びました」。総務部では給与計算業務を主として、その他にも従業員の福利厚生の向上に尽力し、2022年12月に広報部へ異動。昨年1月から広報部責任者と社長秘書を兼任している。部下と3人体制で、社内外へのPR活動の業務にまい進している。
「人に見てもらう」アイドル時代の経験を生かし、昨年に立ち上げたTikTokは広報部総出で運営、自らも主役ばりに出演している。企業・職場紹介に加えて、「入社1年目の上手な働き方」「テレワークのメリット・デメリット」といった働き方のハウツー情報を発信。昨年夏には流行歌YOASOBI『アイドル』に合わせたダンスを披露するなど、持ち前の芸能力を存分に発揮している。
それに「人が好きで、人と人とをつなげたい」という信念のもと、社内の雰囲気作りにも力を注いでいる。銀座のバーテンダーを招いてのカクテルパーティーといった社内イベントをはじめ、怖い話を持ち寄ってオンラインで話す怖い話大会やバーベキューなども積極的に企画。同期や後輩たちを飲みに誘って悩みを聞いたり、旅行の合間に大阪勤務の社員に会いに行き、社内交流を深めるなど、“リアル・対面”での居場所づくりにも余念がない。
広報担当者として「弊社のことをより多くの人に知っていただきたいです。それに、爪痕を残したいです。『あの会社の広報はすごいぞ』と言われたいですね」と、いい意味で野心を隠さない。どんな未来を描いているのか「楽しく働ける場所を作りたい。それが私の信念です。それに私はめっちゃ世話焼きなので(笑)、社員と会社のハブ役じゃないですけど、横断的に動いて、その社員が思っていることを聞いて会社に落とし込んでプラスの効果を生んでいきたいです。人と人を楽しく結びつけることができれば」。元アイドルだからこそ、自分の勤める会社を、どこよりも明るく元気付けていくつもりだ。