藤波辰爾が語る“闘魂スタイル”騒動 渦中の中嶋勝彦に叱咤「名前出した以上は変なことができなくなる」
25日まで、横浜のMARK IS みなとみらいで「―おかえりなさい、猪木さん―燃える闘魂 アントニオ猪木展 in YOKOHAMA」が開催されている。15日には内覧会が開催され、一番弟子の藤波辰爾、実弟の猪木啓介氏、猪木芸人のアントニオ小猪木とアントキの猪木が登壇。それぞれの猪木さんにまつわる思いを披露したが、終了後、改めて藤波に話を聞いた。
猪木展内覧会の後に藤波辰爾を直撃「三冠王者・中嶋勝彦の意識には、猪木さんっちゅうものがある」
25日まで、横浜のMARK IS みなとみらいで「―おかえりなさい、猪木さん―燃える闘魂 アントニオ猪木展 in YOKOHAMA」が開催されている。15日には内覧会が開催され、一番弟子の藤波辰爾、実弟の猪木啓介氏、猪木芸人のアントニオ小猪木とアントキの猪木が登壇。それぞれの猪木さんにまつわる思いを披露したが、終了後、改めて藤波に話を聞いた。(取材・文=“Show”大谷泰顕)
このタイミングで藤波に話を聞けるとなった時に、本題とは別に聞いておきたいことがあった。それは「A猪木展」と並行して、猪木関連でマット界の耳目を集めている「闘魂スタイル」騒動に関しての見解である。
要約すると、猪木関連の肖像権などを管理する猪木元気工場(IGF)が、昨年末から「闘魂スタイル」を掲げて全日本プロレスに参戦中の三冠ヘビー級王者・中嶋勝彦と、「闘魂スタイル」の商標登録を行った全日本に対して1月末付で送った「警告書」のこと。
これに対し中嶋は、会見上、頭を下げて謝罪を表明しているが、一連の騒動に関して藤波は、「あのね、どうしても猪木さんの言葉だったり動きだったり映像だったりに権利関係があるのは、今の時代ですよ」と話すと、以下のように続けた。
「でも、レスラーっていうのは、なんだかんだ強がってはいるけど、最初は誰かに憧れてプロレスラーになるんですよ。それはね、中嶋くんも、要するに(佐々木)健介のところに入ったんですけど、健介じゃないんだよ。やっぱり中嶋の意識には、猪木さんっちゅうものがあるんだよね。(猪木は)カッコいいもん。その猪木さんに近づきたい。取って代わりたい。実力はあるし、彼はいいファイトをしているんだから。彼は元々は空手か何かだよね。彼自身がそういうパフォーマンスをしたくなるようなファイトをしてましたよ」
そして、「いいじゃない。どんどんそういうのはやりたい選手はやればいいし、猪木さんに触れたい選手は猪木さんに触れればいいし。どうしても触れたいけど、脇道に逸れたりとか。みんなそういうのが多いけど、もっと素直に」と、中嶋にエールを送った。
「プロレス界にとっては猪木さんに近づくことはいいことだから。もっともっとこれからも闘魂を背負って、誰かに変なことを言われたからとかそうじゃなくて、自分の心の中に猪木さんを持て、ってことを言いたいね。人が強くなる、上手くなる、は真似事から始めるんだよ。マネしたら強くなる。だからもっともっと練習して、ひと一倍練習をする。そしたらプロレス全体に(中嶋の)認知を早くしていくことになるしね」
藤波「横浜文化体育館で『猪木展』をやってほしかったね」
猪木さんを最も間近で見てきた藤波の言葉は重い。だが、藤波は盲目的に中嶋を擁護しているわけではない。
「だけど、彼も1回、猪木さんの名前を出した以上は、これで変なことができなくなる。それでいいんですよ。みんな猪木さんの名前を出したら、変なことできなくなっちゃうから、それでみんな出させないんだから」
この言葉は猪木さんに関わることの重さを誰よりも認識している藤波だからこそ、口にできる言動に違いない。まさに「毒を食らわば皿まで」の精神を持て、という、中嶋の覚悟が試されているのは事実だろう。
そんなところで今回の「猪木展」の話に進むと、藤波と猪木さんといえば、真っ先に思い浮かぶのが60分フルタイムドローとなった伝説の一戦(1988年8月8日、横浜文化体育館)になる。当時、IWGPヘビー級王者だった藤波に、師匠である猪木が挑戦した試合である。
「横浜文化体育館で『猪木展』をやってほしかったね」
この話を藤波に振ると、改めてそう言った。この4月から新アリーナ「横浜BUNTAI」としての開館前だけに、思わずそんな言葉が出たのだろう。それだけ藤波にとって強い思い入れのある場所だということが伝わってきた。
「60分、猪木さんを独り占めにできた」
前日の内覧会でもそう語っていたが、それに関して藤波は「いい言葉でしょ?」と話し、以下の言葉を続けた。
「普通はね、プロレス界ではあの図式(※師匠の猪木が藤波のベルトに挑戦)はないんですよ。だから今になって思うのは、あれは猪木さんがくれた最後の大きなプレゼントだったね。弟子であってもチャンピオンであっても、とくに猪木さんみたいなプライドの高い人だったら、なんで俺が藤波に挑戦しなきゃいけないんだって。だから絶対にないんです。猪木さんはもう(ベルトを)超えたところに行っちゃってるから。普通は実現しないんですよ。だから、この試合はできないだろうな。流れるんじゃないかって。 猪木さんが『うん』って言わないなと思って」
アントニオ猪木のしたたかさを感じた
それだけに、いざ実現した際には、当の藤波が一番驚いたに違いないが、そこには大きな理由があった。
「あの時は新日プロも一番厳しい時でね。だけど、あの時はテレ朝ではゴールデンタイムで特番を組んでいたから、テレ朝的には何かやらなきゃいけないと思ってたけど、外国人にしてもそこに据える外国人はいなかったんですよ。そうなると、新日本プロレスは、ことあるごとに、困った時の猪木VS藤波戦だったからね」
藤波はそう言って笑ったが、実はさらなる難題が噴出した。困った時の猪木VS藤波戦という切り札を使おうにも、それらしい会場が空いていなかったのだ。
「会場を探せっていわれても、(首都圏では)会場がなかったんですよ。両国(国技館)も(日本)武道館も空いていない。東京ドームが(竣工中で)まだない頃でね。そのなかで唯一、空いていたのが横浜文化体育館だけだったんですよ。あの会場は(観客動員数が)4、5千人くらいかな。だから営業マンが困ってましたよ。『二日間やりましょうか』なんて言われたけど、(猪木との一騎打ちを)二日間もできるわけがない。だから興業的にはもったいなかったでしょうけど、僕は必死でしたよね。これは下手を打てないなあってね。やっと掴んだトップの座でね。ベルトをしっかり腰に巻いているわけだから」
結果は60分闘い切って、決着がつかずに時間切れ引き分けに終わった。
「一番ビックリしたのは、僕はもう全盛期でベルトを持っているわけだから、自信があったっていうよりも、負ける要素がないっていう感じで。でも猪木さん自身が、時間が経つにつれて調子を上げてくるっていう。あれは猪木さん自身の調子のよさ、したたかさっていうのか執念っていうのかそういうものを感じましたね」
ちなみに藤波は、60分闘い切った上での引き分けのゴングが鳴る瞬間のことを覚えている。
「やっぱり最後のゴングが鳴った時に、僕が猪木さんの上にカバーしていると思ったらね、最後、猪木さんにひっくり返されましたからね。それぐらい、猪木さんには意地があったんでしょうね。絶対に俺は自分の弟子には背中をつけて終わらないっていう。やっぱりそれぐらいの闘志っていうかそれを感じましたね」
伝説からもうすでに35年を経過したが、藤波には今でも猪木戦が生涯の大切な宝物として、その心身に深く刻まれている。