鳩山元首相、米軍基地問題「最低でも県外」が実現できなかった理由「戦い方まずかった」
元内閣総理大臣の鳩山友紀夫氏(76)がENCOUNTの独占インタビューに応じ、普天間基地問題について語った。総理在任中に基地移設が叶わなかったことは今も大きな悔いとして残っているという。「最低でも県外」発言の真意、沖縄への思いを明かした。
沖縄の普天間移設をめぐって、沖縄県民と約束した「最低でも県外」
元内閣総理大臣の鳩山友紀夫氏(76)がENCOUNTの独占インタビューに応じ、普天間基地問題について語った。総理在任中に基地移設が叶わなかったことは今も大きな悔いとして残っているという。「最低でも県外」発言の真意、沖縄への思いを明かした。(取材・文=平辻哲也)
2012年の政界引退後も、一般財団東アジア共同体研究所、世界友愛フォーラムの理事長を務め、東アジアの発展と平和を願って、活動を続けている鳩山氏。沖縄の普天間移設をめぐって、沖縄県民と約束した「最低でも県外」が叶わなかったことは大きな心残りになっている。
鳩山氏は09年7月、遊説先の沖縄で普天間基地移設について「県民の気持ちが一つならば、最低でも県外の方向で、我々も行動を起こさないといけない」と発言。同年8月の総選挙で民主党は圧勝し、首相となったが、移設問題をめぐって迷走したことが、10年6月、首相辞任のきっかけになった。
沖縄と日本の現実に切り込んだドキュメンタリー映画『沖縄狂想曲』(公開中)にも、太田隆文監督からのオファーを受け、出演。沖縄をめぐる諸問題について、踏み込んだ証言を行っている。「最低でも県外」発言はどういう思いから生まれたものだったのか。
「当時、民主党の沖縄ビジョンの中でも、沖縄にある米軍基地を縮小させていかないといけないことがありました。普天間基地に関しては、選挙の直前に沖縄の方々の考え方を再度伺いたかったんです。そこで集まってくださった方々が(県外移設)は沖縄の総意であるということをおっしゃった。それならば、私としても最低でも県外にできれば国外に移設させようということを申し上げたんです」
普天間基地は文教地区もある人口密集地にあり、かねてから「世界一危険な基地」との指摘があった。04年には米軍ヘリが沖縄国際大学に墜落する事故が発生したことから、移設への議論が高まっていた。09年11月にはバラク・オバマ米大統領が初来日し、会談。基地移設問題についても意見交換をしている。
「官僚たちは割と早いうちから、アメリカに忖度するようなことが続いて、実現できなくなってしまったのですが、今思えば、来年6月までに決めると、期限を切ったことがまずかったと思っています。オバマ氏からは、『早く結論を出してくれ』というのが唯一の返答でした。最初は『できれば、今年(09年)中に』と言われたので、『それは無理だから、半年先に伸ばしてくれ』と言ったのです。その期限が大きな問題になった。3月末までは予算委員会で全く身動きが取れない。4月の1か月だけで動くのは、無理だった」
「最低でも県外」発言は内閣運営の重しにもなった。県外移設の実現度はどのくらいあると考えていたのか。
「パーセントで考えたことはないです。沖縄の総意だから、やらないといけないという気持ちでいたんですが、始めたら簡単じゃないと分かった。民主党内でも、応援してくれているのは、川内博史議員、亀井静香さん、官房長官の平野博文さんなどごくわずか。四面楚歌のような状態になっていました。具体的な移設場所を思い描いていたわけではないですが、平野さんによれば、徳之島(鹿児島)では500人ぐらいといろいろと話して、設計図を作るところまで行ったと聞いています。しかし、自民党、メディア、官僚が反対を盛り上げていき、どうしようもなくなりましたが、その可能性はあったかもしれない」
映画でも出てくるが、米政府は移設先にはこだわっていなかった、という話もある。
「彼ら(アメリカ政府)は、(移転候補地の)辺野古も知らなかったと思います。とにかく、普天間がダメなので、とにかく撤去なんだと。それであれば、普天間基地を早く撤去させるだけでよかった。それがいつの間にか、代替地を探すという話にすり替わってしまった。普天間撤去でピリオドを打っていれば、ここまでの話にはならなかったと思います。それも、今から思えば、の話ですよ」
今も辺野古基地移転問題は大きく揺れている。沖縄県が新たな区域の埋め立てを承認せず、国は沖縄県を相手取って、代替執行訴訟を起こし、沖縄県が敗訴となり、先行きは不透明だ。
「今は、ミサイルが非常に高い精度で当たるような時代になってきています。近くに米軍基地があることは、非常に危ない話で、むしろ遠いところに置くのが正しい。今でも、政府は『辺野古が唯一の移転先』と言っていますが、全くダメです。特に、官僚は一度決めたものを絶対変えさせていかんぞという思いを持っています。官僚は『鳩山の言うことは聞くな』とアメリカに伝えていましたが、そこまで忖度(そんたく)するのか、と思っていました」
内閣発足時は70%を超える高い支持率もあり、国民の期待に応えたいという思いも強かった。それを阻んだのは官僚だったという。
「私は、事務次官会議という役人のトップの会議を廃止したのですが、官僚からすると、非常に頭に来た話だと思うんです。事務次官会議は大臣閣僚をコントロールする大きな機関で、官僚はずっと自民党政権との癒着が続いていましたから。本当の意味での自民党が下野したのは民主党が初めての状況です。彼らにしたら、早く自民党政府に戻して戻したいという気持ちがあるわけですよ」
鳩山氏はこう総括する。
「政治の世界は自民党が中心。そこに官僚、大手企業、アメリカ、メディアがくっついている。それを私は全部いっぺんに相手として戦おうとしたことが不味かった。いきがりすぎて、冷静さを失っていたんだと思います。そうじゃなくて、敵を作りながらも、他は味方にしながら落としていくというようなことをやらない限り、この国は変わらない。もっと緻密に一つ戦っていかなければ、いけなかった」
鳩山氏は今も、年に最低4回は沖縄に足を運び、沖縄国際大学で教鞭を取り、講演やシンポジウム、小さな集会に顔を出している。
□鳩山友紀夫(由紀夫)(はとやま・ゆきお)1947年2月11日生まれ。元内閣総理大臣、(一財)東アジア共同体研究所理事長。東京大学工学部卒業、スタンフォード大学工学部博士課程修了。1986年初当選。93年細川内閣で官房副長官を務める。2009年、民主党代表、第93代内閣総理大臣に就任。10年総理大臣を辞任。氏名表記を鳩山由紀夫から鳩山友紀夫に変更。著書に『脱 大日本主義』(平凡社)などがある。