「今思えば東京ドームに負けていた」“元祖アイドルレスラー”C鈴木が女子プロ唯一のドーム大会を回想

“元祖アイドルレスラー”のキューティー鈴木が現役時代を振り返る。今回はプロレス界に時折、物議を醸す「不穏試合」について。また、東京ドーム大会まで開催するに至った、他団体との対抗戦をキューティーはどう考えていたのか。

現在のキューティー鈴木は2人の男の子を育てる母として多忙な生活を送っている
現在のキューティー鈴木は2人の男の子を育てる母として多忙な生活を送っている

キューティーに“不穏試合”はあったのか

“元祖アイドルレスラー”のキューティー鈴木が現役時代を振り返る。今回はプロレス界に時折、物議を醸す「不穏試合」について。また、東京ドーム大会まで開催するに至った、他団体との対抗戦をキューティーはどう考えていたのか。(取材・文=“Show”大谷泰顕)

 かつてキューティー鈴木が所属したジャパン女子プロレスには伝説の「不穏試合」があった。「不穏試合」とは、プロレスに存在するといわれる暗黙の了解を乗り越えて、相手に過度な攻撃を与えてしまう試合といったニュアンスだろうか。

 当時のジャパン女子だとジャッキー佐藤VS神取しのぶ(現・忍)の一騎打ちがこれに当たる。時は1987年7月18日、場所は大和車体工業体育館でのことだった。理由はいまだによく分かっていないが、試合中、神取が素手でジャッキーの顔面を殴りつけ、馬乗りになって殴る場面もあった。結局、試合はチキンウイングアームロックで神取がジャッキーに勝利。この時、デビューして間もないキューティーも会場にいた。

「あの時は、何がなんだか分からなかった。ただ、空気的に普通じゃないっていうのは分かりましたけど、見たくないというか。怖かったです。でも、ああいう試合になるとは思わなかったけど、なんとなく空気が悪いことは感じてました」

 この発言から、デビューして間もないキューティーですら、ただならぬ雰囲気は察知していた。

「ああなるなんて予想もしていなかったので……。でもあの頃、とくに私が心が痛かったのは、試合の翌日以降でした。ジャッキーさんが顔を腫らしながら巡業に来て、マスクをしてリングに上がって、休場のあいさつをしているのを見た時ですね。もちろん、あれは何かがあったんだろうなと思うんですけど、子どもだったのもあったし、ド新人の私には分からなかったです。実際のところ何があったのか。知っている人たちもいるんだろうけど、私たちにはよく分からなかった……」

 ちなみにキューティーには、ああいった「不穏試合」の経験はあったのか。これに関してキューティーは、「試合中にキレちゃったっていうのはないですけど、あんなふうにキレることはなかったかな」と話した。

 結局その後、1992年にジャパン女子は崩壊し、解散することになる。

「前々から何度もジャパンが解散するっていううわさはあったんです。だからうわさはその時だけじゃなくて何度も何度もあった。『解散するんじゃないか。なくなるんじゃないか』っていう。ただ、その時が一番うわさの濃度が濃かったんですけど、もしかしたらなくならないんじゃないかっていう期待もあったっていうか」

対抗戦時代のリング上での主導権争い

 しかしながらなぜかキューティーには、いざ解散してしまっても「この後どうしよう」という不安が襲ってこなかった。理由は「まだ若かったから。ただ、『あ、もうプロレスができないんだ』っていう気持ちはありました」とのこと。

 その後、ジャパン女子の事務所に全員集合の呼び出しがかかる。

「『新しく団体を作ろうと思うので』って言われて、私はプロレスがまたできるならって思って、選択肢がなかったから残る選択をとっただけでした。それがJWPになったんです。ただ、『やらない』って答えたほぼほぼの人たちがLLPWに行った。だから私はLLPWができることを知らなかったんですよ。だから負けたくはないと思ったけど、自分のことで頭がいっぱいで、それどころじゃなかったんですね」

 そして、ジャパン女子が崩壊した92年からは、全日本女子プロレスとFMW女子が対抗戦をスタートさせ、翌年からはキューティーの所属するJWPも、横浜アリーナや東京ドームといった大会場での対抗戦に参戦していく。

「気がついたらトントントンと話が進んで、東京ドームで試合をすることになったんですけど、私には実感がありませんでした。その頃の私は後楽園ホールが基準だったので、よく分からなかった。ドームの時ってお客さんが遠いし見えないし、ワンテンポ遅れて歓声が来るんです。もちろんプロレスラーにとってはあんな広い場所で試合ができるのはうれしいですよね。だから他団体の人とやった時は、普段通りにいけばいいなって思いながらやっていました。今思えばドームに負けていたような気もしますね」と振り返ったが、とくに「憧夢超女大戦」(94年11月20日、東京ドーム)は、23試合中、22試合が女子だけで構成された、女子プロレス界唯一の大会だった。

 実際、キューティーは全女との違いを感じたことはあったのか。この問いに対し、キューティーは「ちょっとした違いはいくつもあったんですけど、始まっちゃえば、どっちが合わせるかは負けたほうが悪いみたいな」と、リング上での主導権争いが存在したことを明かした。

 ちなみにキューティーにとって印象深い試合はどの試合なのか。

「JWPの旗揚げ戦(92年4月3日、後楽園ホール)は、デビュー戦の時とは重みも違うというか、みんながみんなどうにかしなきゃっていう責任感はあったと思うし、みんなと同じことをやってちゃいけないっていう強い意識を持ってリングに立ったと思います。あとは尾崎魔弓と組んで、初めての対抗戦で、井上京子さん&貴子さんとやったんですけど、私自身は対抗戦と興味があったわけじゃなくて。もっとJWP内でダイナマイト関西さんやデビル雅美さんとやってみたい気持ちが強かった。でも、実際にやってみたら対抗戦はすごく楽しかったというか、違う空気を吸えたんですね。だから対抗戦の空気感がすごく気持ちよかったです」

次のページへ (2/3) 【写真】尾崎魔弓&キューティー鈴木の現在の姿
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