【週末は女子プロレス♯133】アルシオン卒業式でオッキー沖田がリングアナ復活「もう一度あの時代に戻りたい」
来年1月12日、東京・新宿FACEで開催される「ARSION THE FINAL~卒業~」。1998年2月に華々しく旗揚げしたアルシオンは、全日本女子プロレスの大量離脱を機に当時の全女企画広報部長・ロッシー小川(現スターダム・エグゼクティブプロデューサー)が創設、「ハイパービジュアルファイティング」を掲げ、女子プロレス界で一時代を築き上げた。しかし、主力選手の退団が相次ぎ、2003年6月にAtoZとの吸収合併で名称が消滅。そのAtoZも長くは続かず、アルシオンはハッキリとした形で団体活動にピリオドを打つことはなかったのだ。
2024年1月12日に「ARSION THE FINAL~卒業~」が開催
来年1月12日、東京・新宿FACEで開催される「ARSION THE FINAL~卒業~」。1998年2月に華々しく旗揚げしたアルシオンは、全日本女子プロレスの大量離脱を機に当時の全女企画広報部長・ロッシー小川(現スターダム・エグゼクティブプロデューサー)が創設、「ハイパービジュアルファイティング」を掲げ、女子プロレス界で一時代を築き上げた。しかし、主力選手の退団が相次ぎ、2003年6月にAtoZとの吸収合併で名称が消滅。そのAtoZも長くは続かず、アルシオンはハッキリとした形で団体活動にピリオドを打つことはなかったのだ。
だが、アルシオン全盛時の人気選手だった府川唯未の提案により、団体発足から25年の節目で一日限りの復活が決定。うやむやな状態で消えてしまった団体にしっかりとピリオドを打とうというイベントがおこなわれることになったのだ。当日は、アルシオンに関わった多くのOGが来場し、一部OGは現役選手との対戦で限定復帰。大会のエンディングでは「卒業式」がおこなわれる模様だ。
この大会でリングアナウンサーを務めるのが、団体旗揚げから関わってきたオッキー沖田。ZERO1の名物リングアナで今年7月に同団体のリングアナから退いた沖田は、リング設営の仕事から全女に入社し、94年4月にリングアナデビュー。彼もまた全女大量離脱の波に巻き込まれることとなり、アルシオン設立にかかわった。当時の状況を沖田はこのように振り返る。
「東京ドームとかのビッグマッチをやってた頃ですよ。給料が徐々に遅れ始めたんですよね。やめる選手やフリーになる選手が出てきて、ボクらのような若いスタッフには『払わなくていいや』みたいな雰囲気になっていた。『もうそろそろオレたちもヤバいよね』っていう話を(スタッフ間で)するようになってきていた頃、レフェリーの村山(大値)さんと一緒に、小川さんの家に行ったんですよ。『小川さんの家で鍋やりましょうよ』とか言って。外だとすぐ話が終わってしまうと思ったので、あえて家に行かせてくださいとお願いしました。それで、今後どうします? という話をしたんですよね」
そこで出てきたのが、新団体の構想だった。どちらからその話を切り出したかは記憶の部分に相違があるため断言はできないが、少なくともこのときの話し合いで新団体旗揚げの構想が持ち上がり、その場にいた3人が意見の一致をみたのである。
その一方で、別のところでも新団体の構想が持ち上がっていた。井上京子が全女離脱派をまとめようと動いていたのだ。
「京子さんは『全女に残る人は残っていい。残らない人は全員ひとつになろう』と声をかけてくれたんですよね。ただ、小川さんは京子さんと一緒にやるつもりはなかった。アルシオンに行く人はそれを知っていたので、京子さんの話に知らないふりをするしかなかった。裏切ってるみたいで、すごく心苦しかったです」
結局、全女は全女で興行を継続するかたわら、全女離脱組は京子のネオ・レディース派と小川のアルシオン派に分かれた。そしてネオ・レディース旗揚げから1か月後、アルシオンが98年2・18後楽園ホールでスタートを切ったのである。
「当時よかったのは、(女子プロレスを扱う)媒体が多かったことですよね。それこそニュースを出せば後楽園がいっぱいになるくらいの勢いがありましたから」
もちろん、リング上の話題にも事欠かなかった。ビジュアルを前面に打ち出し、試合スタイルにも格闘技のエッセンスやメキシコのルチャリブレなど海外のテイストを融合させた。
「ハイパービジュアルファイティングということで、小川さんは若くてかわいい子を売るということを鉄則にしていましたよね。これを貫いていたのがすごいと思ったし、選手もスタイルを変えたりして新天地にかけていました。たとえば、吉田万里子はマリポーサ殺法のマリちゃんからサブミッションアーティストになって、完全にアスリート化しましたからね。府川もカッコよさを求めながらもかわいらしさを残して、パンクラスさんで学んだサブミッションを自分のものにしてましたから」
アルシオン消滅した当時「まったく気がつかなかった」
選手のスタイルを劇的に変えたのがアルシオンなら、一度はリングから姿を消した選手を復活させ、さらに開花させたのがアルシオンでもあった。沖田は言う。
「試合ですごいなと思ったのは、キャンディー奥津です。JWPで一度引退してアルシオンで復帰したんですけど、戻ってきた奥津は誰と闘ってもすごいなと思いながらリングサイドで見てました。いまの選手で例えるならSareeeとか桃野美桜とかですかね。かわいらしいんだけど、強さもあって、力もある。柔軟性がすごくて、それでいて殺伐としている感じもあるんですよ。大向(美智子)、吉田、府川とはまた違うオールマイティーな選手なんだなと思います。
あるときバックステージでつまんなそうな顔してるからどうしたのって聞いてみたら、『なんでアルシオンは地上波での放送がないんだろう?』って。ボクが地上波は無理でしょうと言ったら、『無理だっていうその考えがダメなんだよ。できるようにがんばろうよ。目標を高く持っていればいつかできるよ』って言うんですよね。空中戦なら(初代)タイガーマスクに負けないとタイガードリームをやったり。世界を見たいという話もあったし、彼女のプロレス観ってホントにすごいと思いました。いまでこそWWEとかへの道もありますけど、もしも当時からそういうルートがあったとしたら、間違いなくキャンディーはそっちで花開いて、華名(ASUKA)らの先駆者になっていたと思いますよ」
沖田がアルシオンでリングアナを務めていたのは2年にも満たない。意外と短い期間だったが、アルシオンを見てきた者には大きな印象が残っているはずだ。では、沖田にとってアルシオンとはどんな団体だったのか。
「ボクはあこがれでプロレス業界に入りました。全女で初めてお仕事をさせてもらって、全女をやめてから初めてお仕事をさせてもらったのがアルシオンでした。旗揚げの頃は大変でしたけど、いろいろと人間としての勉強をさせてもらった場所ですね。教育実習の場と言いますか、アルシオンがあったからこそ、ボクはその後ZERO1で橋本(真也)さんについていけたと思うんですよ」
そして、府川のイベントの司会を担当したことをきっかけに、今回の大会が実現に至る。沖田もまた、アルシオンに大きな思い入れのある一人なのだ。
「アルシオンがなくなったときどう思ったか? いや、正直に言っていいですか? その頃のボクってZERO1が忙しすぎて、アルシオンがなくなったこと、まったく気がつかなかったんですよ。申し訳ないんだけど、気づいたらAtoZになってました」
だからこそ、「卒業式」開催は彼にとっても願ったりかなったりのイベントである。現在はZERO1を運営する株式会社ダイコーZERO1の取締役で、栃木プロレスのリングアナウンサー。そして1月12日には、大向、府川、藤田愛が限定復活するのと同様、沖田もアルシオンのリングアナとして復活する。
「いろいろ勉強させてもらったアルシオンだからこそ、いまの知識を持ってもう1回、小川さんとやりたいなと思っているんですよ。でも、それがかなわないからこの一日に集約させたいと思います。いまの知識をもって、もう一度あの時代に戻りたいというのが本音ですね(笑)」
(文中敬称略)