田中美奈子、セクシー&悪役で売れた20代は「つらかった」 56歳になった今「残りの人生は自分らしく」
バブル時代の1989年にブレークし、ドラマ、CM、バラエティー番組の出演を重ねた俳優・田中美奈子が来年に芸能活動40周年を迎える。スレンダーなスタイルと脚線美、小悪魔的なルックスで「東大生が選ぶ恋人にしたいNO.1」にも選ばれ、彼女の瞳に1億円の保険が掛けられたことでも話題となった。今は2児の母。芸能活動と並行してキャンピングカーアンバサダーとして、全国で講演活動も行っている。楽しみは休日にキャンピングカーで家族旅行に出かけること。56歳になった田中が現在、過去、未来を語った。
来年で芸能生活40周年、今は2児の母で「楽しみは家族旅行」
バブル時代の1989年にブレークし、ドラマ、CM、バラエティー番組の出演を重ねた俳優・田中美奈子が来年に芸能活動40周年を迎える。スレンダーなスタイルと脚線美、小悪魔的なルックスで「東大生が選ぶ恋人にしたいNO.1」にも選ばれ、彼女の瞳に1億円の保険が掛けられたことでも話題となった。今は2児の母。芸能活動と並行してキャンピングカーアンバサダーとして、全国で講演活動も行っている。楽しみは休日にキャンピングカーで家族旅行に出かけること。56歳になった田中が現在、過去、未来を語った。(構成・文=福嶋剛)
私は、生まれも育ちも千葉県船橋市。親戚の叔父がキャンピングカーを持っていたので、小さい頃からみんなでキャンプに行くのが楽しみでした。小学生の時は女子サッカー部、中学ではテニス部、リレーの選手や応援団で活動し、『将来は体育の先生になりたい』と思っていた活発な子でした。ただ、当時はピンク・レディー全盛期だったので、よく歌マネをして「私もいつかデビューしたい」と思い、親に反対されながら『全日本選抜ちびっこものまね歌合戦!』(テレビ朝日系)に応募しました。
高校2年のときには「第3回ミスマガジン」(84年)で2位になりました(1位は斉藤由貴)。高校3年になると、体育の先生と芸能界どちらを目指すか悩んだ末に芸能界を選択しました。当時、母親がスナックを経営していたので、業界のお客さんもよくお店に来ていて私がカラオケで歌の練習をしていると、「レコードデビューしてみない?」と声を掛けられたこともありました。オーディションはいつも2番手止まりでしたが、母に「そんなにやりたいなら、頑張りなさい」と認めてもらいました。
18歳で受けた「レナウンイエイエガール」(87年)も準優勝でした。受賞した3人で1年間限定のユニット「87イエイエガールズ」としてCDデビューしました。夢だった歌手活動に加えて、たまたま身長制限が緩かった年なので、160センチの私もランウェイを体験できて本当に幸せでした。
歌手デビューする前からドラマのお仕事も始まり、バラエティー番組やラジオ番組、コメディーもやりました。そして、21歳で歌手としてソロデビューをしました。当時は上手い下手は関係なく、歌を出すのが普通の時代でした。ただ、事務所はセクシー路線歌手の一番手みたいなイメージで売り出して、体にピタッとしたボディコンばかり着ていました。マスコミには「毎晩、ディスコで遊びまくっている」と思われ、『田中美奈子=六本木』みたいなイメージもできあがり、浮いた存在で見られていたと思います。でも、実際はディスコにはイエイエガールズの営業とドラマの打ち上げでしか行ったことがありませんでした。休みはキャンプが中心。なので、オフの日の私に会うと、皆さんがギャップに驚いていました。
大学の学園祭で歌う機会も多くて「学園祭の女王」と呼ばれました。リハーサルが終わると、大学のコートで思い切りテニスをして手がしびれてマイクが持てなくなり、スタンドマイクで歌ったりしました(笑)。「東大生が選ぶ恋人にしたいNO.1」にも選ばれましたが、きっと素顔の私を知ったら笑ったでしょうね。
この頃、私の瞳に1億円の保険を掛けられたというニュースがマスコミでも話題になりました。これは本当の話です。もちろん、事務所が仕掛けた話題作りですが、ほとんどの方が露出の多かった足に保険を掛けたと思っていたようです。2年間くらいスイスの銀行に毎月30万円以上払っていたみたいで、冗談で「ものもらいでも保険は下りますか?」と聞いたら、「もちろん、下りません」って(笑)。
ドラマのお仕事は大好きでした。まるで、家族みたいなチームワークで1つの作品を作り上げていく世界に魅了されていました。欽ちゃんのコントが大好きで、「いつかコメディードラマをやってみたい」と思っていたら、『キモチいい恋したい!』(90年、フジテレビ系)、『トップスチュワーデス物語』(90年、TBS系)に出演させていただきました。その後、『もう誰も愛さない』(91年、フジテレビ系)ですごくシリアスな悪役を演じ、それが大ヒットしました。業界視聴率も「90%」と言われるくらいの認知度で、次の『ジュニア・愛の関係』(92年、フジテレビ系)でも悪役を演じると、悪役のオファーが多くなりました。
もちろん、悪役以外の役もいただいて俳優として認められたことはありがたかったです。ただ、悪役の印象があまりにも強すぎて、「あの怖い女優ね」と思われていました。それが、20代の私にとっては本当につらかったです。
私の後に千堂あきほちゃん、かとうれいこちゃん、杉本彩ちゃんが、セクシー系タレントの路線で活躍されました。れいこちゃんがデビューした頃、彼女が真剣な顔でフジテレビの楽屋にやって来て、「美奈子さん、毎日、仕事が大変でつらい」と相談されました。れいこちゃんの目は真っ赤に充血していて、大変そうでした。私も同じような時期があったので、「れいこちゃん、大変なのはよく分かる。でも、ここを乗り越えるかどうかで決まるんだよ。こんな私だってなんとか乗り越えることができたんだから、れいこちゃんだったら必ずできるよ!」と励ましました。その後、かとうれいこの時代がやってきました。
私も実際の自分とタレントイメージがどんどん離れていき、つらいことも多かったのですが、芸能の仕事が大好きだったので、負けずに生きていました。それは芸能界に限らず、『社会では本当に好きなことだったら、何があっても諦めず走り抜いた人が残っていく』と学びました。
家族でキャンピングカーの旅を満喫、全国制覇まであと5県
2007年に結婚しました。夫とは昔から家族ぐるみの付き合いで、すっぴんの私しか見てこなかった人です。まさか結婚するとは思っていませんでした。「町内会婚」なんて呼ばれて、40歳のときに長女、42歳で長男を授かりました。高齢出産でしたが、ギリギリまでドラマの撮影や韓国のチェジウさんと通販の生番組を続けて、出産しました。そんな子どもたちも、大きくなりました。長女は中学3年生でダンスに夢中。長男は中学2年でサッカーをやったり、野球をやったりのスポーツ好きです。
子育てで大切にしているのはスキンシップです。欧米スタイルで、毎朝ちゃんとハグをしてします。親子ゲンカもありますが、家族4人の心の距離を大切にしています。そんな家族のコミュニケーションに役立っているのが、キャンピングカーです。小さい頃から好きだったキャンプを家族でも楽しんでいて、テレビ番組『千鳥のドッカン!ジブン砲』(18年、フジテレビ系)の出演がきっかけで、日本RV協会から「キャンピングカーアンバサダー」に任命頂きクレアというキャンピングカーを提供していただきました。家族で47都道府県の制覇を目指していますが、3年かけて残り5つの県になりました。私も長距離運転が大好きで、1か月間で北海道を一周したり、コロナ禍の時だってペットと一緒に安心しながら旅を楽しめました。現在は全国でキャンピングカーの魅力を伝える講演活動も行っています。いつかキャンピングカー好きを集めて、イベントをやりたいなと考えています。
数年前にサンミュージックを辞めて独立してからは、悪女役にいったん区切りをつけました。そして、今の自分に合った役をやらせていただいています。以前、友人の吉田栄作くんに「美奈子の良いところは芸能界に染まらないところだ」と言われました。私は女優の前に1人の人間としてどう生きるかを大切にしていきたい思っています。今年で56歳になり、『残りの人生はやりたいことを自分らしくやっていこう』と決めました。
そんな同じ時代を過ごした仲間たち10人と、12月9日に歌とトークの80’sディスコパーティーを企画しました。『タイムスリップパーティー』と題して、六本木のクラブ『R3 Club Lounge』に、野々村真さん、渡辺めぐみさん、つちやかおりさん、かとうれいこさん、伊藤かずえさん、西山浩司さん、西村知美さん、梅宮アンナさん、大西結花さん、DJ OSSHYさんが登場します。お客さんと一緒に80年代にタイムスリップしたような内容を考えていて、私も歌います。今だから話せる裏話なんかもたくさん聞けると思うので、ぜひ、遊びにいらしてください。
□田中美奈子(たなか・みなこ)1967年9月12日、千葉・船橋市生まれ。84年、「第3回 ミスマガジン」で準グランプリ、87年、「レナウンイエイエガール」で準グランプリ受賞。89年、『涙の太陽』で歌手デビュー。「学園祭の女王」と呼ばれセクシー系タレントの先駆けだった。俳優としては、92年のフジテレビ系『もう誰も愛さない』の悪女役がハマり、ドラマ、映画に多数出演。2000年、動物愛護団体elfを設立。20年には日本RV協会のキャンピングカーアンバサダー、パラオ共和国名誉親善大使に就任。07年、俳優の岡田太郎と結婚。1男1女をもうけた。