坂本冬美、母と弟が相次いで天国へ「悲しみの数が多く…人として強くなってくると思います」
歌手生活37年目の坂本冬美(56)が、今年も充実の年末を迎える。大みそか恒例の『第74回NHK紅白歌合戦』は、21年連続35回目の出場。12月4日には、東京・六本木のEXシアター六本木開業10周年記念コンサートを“演歌代表”として行う。昨年6月の母(享年77)に続き、今年8月に弟(享年55)が死去。つらい状況で坂本は殻を破り、前進し続けている。どんな時も、「ケセラセラ」(どうにかなるさ)で前を向く。2回のインタビューで、そのマインドに迫る。後編のテーマは「別れ」。
インタビュー後編「別れ」
歌手生活37年目の坂本冬美(56)が、今年も充実の年末を迎える。大みそか恒例の『第74回NHK紅白歌合戦』は、21年連続35回目の出場。12月4日には、東京・六本木のEXシアター六本木開業10周年記念コンサートを“演歌代表”として行う。昨年6月の母(享年77)に続き、今年8月に弟(享年55)が死去。つらい状況で坂本は殻を破り、前進し続けている。どんな時も、「ケセラセラ」(どうにかなるさ)で前を向く。2回のインタビューで、そのマインドに迫る。後編のテーマは「別れ」。(取材・文=笹森文彦)
8月7日。坂本はオフィシャルサイトの「冬美便り」で、弟の訃報を報告した。がんだった。「昨年から闘病中でした弟が、8月3日享年55歳で旅立ちました」「明日から気持ちを切り替えて、弟の分も頑張って、しぶとく生きていきたいと思っております」とつづった。
相次ぐ訃報だった。昨年6月25日には、母を心不全で亡くしている。77歳だった。60代後半から脳梗塞や心臓病で入退院を繰り返していた。寝たきりとなって、亡くなるまでの6年間、弟が母の家にほぼ毎日寝泊まりして、面倒を見ていた。
「母が亡くなって、まだ涙が乾かない3か月後に、弟のがんが発覚したんです。その時にはもう『余命半年』と言われていました。人生100年なら、母を看病した6年間はそんなに長くないかもしれないですけど、55年のうちの6年間を母のために費やして……。私が仕事をしているからと、弟に任せちゃったので、『申し訳ない』という気持ちがやはりあって。『私は十分幸せな人生を送らせてもらったから、もう歌えなくてもいい。何とか1日でも長く、私の命を弟にあげてほしい』と毎日祈りました」
母は弟をとてもかわいがっていたという。弟も母っ子だった。ふるさとの和歌山でコンサートがあると、弟が車で迎えに来てくれた。1時間ぐらいかけて実家に帰ると、母が「ああ、お疲れさんやったな」と出迎えた。坂本は当然、自分のことと思うが、それは運転をした弟へのねぎらいの言葉だった。
「『運転は1時間しかしてないから。私は2回公演してきてるから』って思うんですけど(笑)。それだけ、弟をかわいがっていたわけです。だから、母にとっては弟に看病してもらえたことが1番だったと思うんです……」
坂本も母のことを気遣って生きてきた。3つ違いの姉と弟の3きょうだい。父は26年前の97年に車の事故で急逝した。55歳だった。
「私は歌手になりたくて、両親のことやふるさとのことなど顧みることなく、自分のことだけ考えて上京しました。父が亡くなって、初めて母のこと、姉弟のことを振り返りました。父が亡くなって母のことが心配で、休みがあれば飛んで帰りました。常に枕元に携帯電話を置いて、『何かあったら』と、ずっとそうやって生きてきました。姉も弟もいましたが、母は1人で寂しかったと思います。夫婦にしか分からないことって、あるでしょうから」
母が亡くなって、「ふるさとが遠くなった」と感じたという。姉は姉の家族、弟は娘3人の自分の家族を持っている。坂本は「何のために頑張ればいいんだろう」と自問自答した。母がいてくれたから、頑張る原動力になっていた。「母に歌う姿を見せてあげたい」「おいしいものを食べさせてあげたい」と思い続けてきた。
「弟がそんな私を見て『ミンミ(坂本の愛称)、ファンの人がいてくれるやろう。ファンの方のために頑張れ』と言ってくれたんです。母が亡くなった直後の話です。まさか、自分がこんなに早く逝くとは思っていなかったでしょうから、うん……」
弟は「生きるんだ」と強い気持ちで頑張ったが、死を悟って「自分のことを知っている人に知らせてほしい。派手に送ってほしい」と遺言を残していた。
坂本がサザンオールスターズのファンだったことが影響して、弟もサザンファンになった。桑田佳祐から楽曲『ブッダのように私は死んだ』(2020年)を提供されたときには、「すごいな」ととても喜んでくれたという。
坂本は弟の遺言通り、芸能界の先輩や友達に弔花をお願いし、祭壇に供えた。そして、弟の娘たちの要望も受け、サザンオールスターズの『いとしのエリー』『Oh! クラウディア』を流し、見送った。
家族だけでなく、多くの人との別れも経験して来た。デビュー曲『あばれ太鼓』を授けてくれた恩師の作曲家・猪俣公章氏。代表曲『夜桜お七』の作曲家・三木たかし氏。演歌以外の世界に導いてくれた忌野清志郎氏。その都度、悲しみに打ちひしがれながらも、歌い続けている。
「悲しみの数が多ければ多いほど、人として強くなってくると思います。父が亡くなったときは私もまだ若かったですが、別れのたびに『やれることは精いっぱいやろう』と思ってきました。だから、強くなってきていると思います」
座右の銘は「ケセラセラ」。1956年の米映画『知りすぎていた男』(アルフレド・ヒチコック監督)で、主演の歌手ドリス・デイが歌った主題歌『Que Sera、Sera(ケセラセラ)』に由来する。意味は「なるようになるさ」。
「本当はそんな性格じゃないんです。だから、『なんとかなるさ。明日は明日の風が吹くって気持ちでいなきゃ』と自分に言い聞かせている感じですね。例えば、朝、必ず(仏壇などに)手を合わせますよね。そして1歩外に出たら、家族のことやいろいろなことを全部置いていって、仕事モードに切り替える。気持ちを強く持っていないと、ガタガタって行っちゃいますから。そこをしっかり自覚して、仕事をまっとうしなければと思って、やっています」
坂本冬美、56歳。これからも「ケセラセラ」と歌い続ける。
□坂本冬美(さかもと・ふゆみ)1967年3月30日、和歌山県生まれ。中学、高校時代はソフトボール部の捕手で主将。86年にNHK『勝ち抜き歌謡天国』で名人となり、猪俣公章氏の内弟子に。87年『あばれ太鼓』でデビュー。第29回日本レコード大賞などの新人賞を受賞。88年に『祝い酒』がヒットし、昭和最後の第39回NHK紅白歌合戦に初出場。91年に『火の国の女』で第33回日本レコード大賞で最優秀歌唱賞を受賞。同年、細野晴臣、忌野清志郎とHISを結成。96年の第47回紅白では『夜桜お七』で初の紅組トリ。父の死去や膵炎(すいえん)などで心労が重なり、デビュー15周年の02年に1年間歌手を休養。09年『また君に恋してる』が大ヒット。他の代表作は『男の情話』『能登はいらんかいね』など。資格は全朱連2級、朱学連準1級、簿記3級、英検3級。梅干しにこだわりを持つ。血液型O。