渡辺智子が語る全女時代の壮絶日々 全身麻酔翌日に金網デスマッチ→翌日再入院「普通だと思っていた」
「いつか殺されると思ったことは何回もありました。まずグーで殴られるのは当たり前だったので。私は、首から上は殴られすぎて、顔面麻痺しているので。顔面麻痺っていうか、触られているのはわかるけど、試合中に顔面を蹴られても、そこまで痛みを感じていないと思う。実際、歯医者に行ったときに、頬の骨が複雑骨折しているといわれたこともありますね」
グーで殴られるのは当たり前
「いつか殺されると思ったことは何回もありました。まずグーで殴られるのは当たり前だったので。私は、首から上は殴られすぎて、顔面麻痺しているので。顔面麻痺っていうか、触られているのはわかるけど、試合中に顔面を蹴られても、そこまで痛みを感じていないと思う。実際、歯医者に行ったときに、頬の骨が複雑骨折しているといわれたこともありますね」
そんな壮絶な経験を平然と語るのは元全女(全日本女子プロレス)で、現在はマーベラスに所属する主婦レスラーの渡辺智子だ。渡辺は10日、新宿FACEで行われた、Sareee、中島安里紗とのタッグマッチに、やはり全女出身の伊藤薫とのコンビ、“いとなべ”で出場。文字通りの激戦を闘っている。(取材・文=“Show”大谷泰顕)
1989年、難関だったオーディションに合格し、全女に入門した渡辺は、連日のように恐怖体験をすることになる。
「メイク道具を置く順番があるんですよ。ファンデーション、口紅、チーク……とかってあるんですけど、その順番が一つでも違っていると、『渡辺智子を呼んでこい!』って言われて。行くと、『お前、間違ってるんだよ!』って殴られてっていう世界ですよ。それが全女です。だけど、それが普通だと思っていました。そういう世界に自分で入ってきたんだからって」
当時の渡辺は自分にそう言い聞かせながら毎日を過ごしていた。
「これだけ殴られて、ご飯も食べれない、寝る時間も15分くらいしかなかったんです。1か月の巡業に行くと、体重が20キロくらい落ちて帰ってくるんです。頬もこけて黒くなっちゃうみたいな。寝る時間もまったくないのに、仕事仕事試合試合。練習ではボコボコにやられる。試合が終わったら先輩にボコボコにやられる。そういう1年を毎日過ごしてたので。よく生きてたなって今は思います」
渡辺の同期は伊藤の他に、蹴りで木製バットをへし折るバット吉永、空手の実績がある長谷川咲恵がいた。「私と伊藤は落ちこぼれでしたよ」と渡辺は話したが、一度だけ、このままだと殺されると感じた渡辺は、同期を連れ立って全女を逃げた。
「場所は長野県佐久市だったけど、全員で逃げました。電車で逃げたけど、次の日、私たちを探しに来た松永会長に『クルマに乗れ』ってクルマに乗せられて会場に連れて行かれて、次の日からまた、元に戻りましたけど」
やはりそのときは先輩に殴られたのだろうか。
「いや、全員からシカトです。『お前たちと同じ空気を吸いたくないから』って。だから廊下で真っ裸になりながら水着(コスチューム)に着替えて。先輩が入場すると、着ていたガウンとかのコスチュームを受け取るじゃないですか。だけど『触るな!』って言われて、すみません、って違う人に受け取ってもらって……」
渡辺による、全女時代の壮絶な体験はそれだけではない。
「全女ってケガをしても、歩けるんだったら試合はできるっていう会社なんですよね。だから豊田真奈美さんも腕だったか足だったか、ギプスを付けたまま試合をやったし、私も鎖骨を折った時に、全身麻酔で手術した次の日に試合をやっているんですよ。そのとき(1997年9月21日)は川崎体育館で金網デスマッチが決まっていて……」
全身麻酔の翌日に金網デスマッチ
全身麻酔の翌日に金網デスマッチとは、おそらく令和の時代ではあり得ない貴重すぎる体験だ。
「(全女の上層部から)『チケットも完売でメインだからやってくれ』って言われて、ドクターを連れて、1日だけ病院を抜けて、試合やってまた入院して。それが全然普通だったんですよ」
まさに尋常ならざる世界、それが全女だった。
「やらされるんですよ、その頃は。若いときは365日のうち、1日に2試合とかあったりしたから、だいたい270試合くらいあったし。でも試合が続いてたから痛みに気づかなかったのもあると思う」
他にも、今では考えられない話がある。
「右ヒザも、私は関節が靱帯も筋肉も全部切れて、外れちゃったんですよ。そのときに、『もう無理無理。ドクターストップを言ってほしい』って言ったけど、そのときも『できるできる』って言われて、無理やりガーッて引っ張って関節を戻して、テーピングをガチガチに巻いて、試合をやらされたんですよ、前川久美子と。でもそのときに30分ドローの試合になって……」
信じられないような話を笑いを交えながら語る渡辺。そのため、少しだけ壮絶さが柔らいだような気にはなる。
「しかも次の日にまたフジテレビで試合があって、さすがにできないって断ったんですけど、『フジテレビの大会だからやってくれ』って言われて、それに負けてやって、右ヒザをかばって試合したら、スタートで左の足首を折っちゃって。代車で運ばれましたよ。で、次の日から入院で車椅子」
そこまで話した渡辺は、次のように話を続けた。「でも、それも普通だと思っていたので。今だったら大問題でしょうね」とまた笑った。
以前、渡辺の同期・伊藤薫に話を聞いたことがあるが、その際に伊藤は「全女はケンカばっかり。ケンカしかない。とくに豊田真奈美さんと山田敏代さんはすごかった」と話していた。
渡辺にこの話を振ると、「あー! 日常茶飯事でした。同期でライバル同士だからこんなもんなんだって感じで。あの2人はCDも出しているんですよ。でも、リングで歌を歌うときになってもケンカしちゃっているから今日はナシってあったし。大変でしたよ、あの2人は。ウチらも同期で結構ケンカしてましたね。言い合いもしてたし、シカトもしてたし、もう関わりたくないなって思ったこともあったし」と当時を振り返った。
ちなみに、入門して何年目から“戦場”ではなくなるものなのか。
「普通だったら2年目……、いや、3年目くらいでなくなるんでしょうけど、私たちの下の代から、みんな逃げちゃあ帰ってきて…の繰り返しだったから、ずっと私たちは下っ端だったんですよ。リングづくりにしても、WWWAタッグのベルトを巻いていた時もやってましたね」
それでも「今となってはいい思い出」と語る渡辺。逆にそういった修羅場の数々を体験したことが渡辺最大の強みになっている。
「ホントですよね。不思議ですよね。精神的にヤバいと思ったこともあったけど、同期があったからこそ、支えてくれて今があると思っていますね」