川嶋あい、20周年の節目にライブ活動「最後」を宣言した理由「自分が出したい声が」
シンガー・ソングライターの川嶋あいがデビュー20周年を迎えた。2002年に16歳で路上ライブを始め、翌03年に音楽ユニット・I WiSHのaiとしてデビュー。『明日への扉』が大ヒットし、05年からはソロで活動している。そしてデビューから毎年、育ての母の命日である8月20日に開催してきた東京・LINE CUBE SHIBUYA(元・渋谷公会堂)でのワンマン・ライブを「今回で最後にする」と宣言した。本番まで残り1か月。ENCOUNTはそこに至るまでの思いを川嶋に聞いた。以下、インタビュー前編。
声帯手術後の発声で「来年が最後になるだろうな」と自覚
シンガー・ソングライターの川嶋あいがデビュー20周年を迎えた。2002年に16歳で路上ライブを始め、翌03年に音楽ユニット・I WiSHのaiとしてデビュー。『明日への扉』が大ヒットし、05年からはソロで活動している。そしてデビューから毎年、育ての母の命日である8月20日に開催してきた東京・LINE CUBE SHIBUYA(元・渋谷公会堂)でのワンマン・ライブを「今回で最後にする」と宣言した。本番まで残り1か月。ENCOUNTはそこに至るまでの思いを川嶋に聞いた。以下、インタビュー前編。(取材・構成=コティマム)
川嶋にとって毎年、8月20日は特別な日だ。歌手の道に導いてくれた育ての母の命日であり、メジャーデビューを果たした03年の命日に渋谷公会堂で初のワンマン・ライブを開催した。同所への思いも強い。渋谷での路上ライブ時代に学生たちと出会い、「CD手売り5000枚、路上ライブ1000回、渋谷公会堂でワンマン・ライブ開催」と目標設定した。学生たちに支えられながら手売り5000枚、同所でのワンマン・ライブ開催、ソロ活動を始めた05年に路上ライブ1000回と全ての目標を達成した。
児相養護施設で育った川嶋を養女として迎え入れ、人見知りだった川嶋を音楽教室に通わせてくれた母。その後、歌手を目指して上京した娘を応援し続けたが、デビュー前に亡くなった。川嶋は03年から毎年、この命日に渋谷公会堂でワンマン・ライブを続け、客席には必ず母の写真を飾っている。
――20周年の節目に大きな決断をされた理由とは。
「5~6年前から声帯の異変を感じ始めていました。『声帯結節』という診断を受け、当時は手術ではなくトレーニングで何とか乗り越えようと思っていました。いろいろなトレーニング方法を試して良くなる時期もあったのですが、コントロールが全然できない状態になってしまい……。どうしても自分が出したい声ややりたいことが実現できなくて、去年(22年)の5月に手術を受けました」
――手術をして変化は。
「術後1か月は会話をする時間も『1日○分』と決められていて、3か月後から『思い切り全開で歌ってもいい』という許可が出て、恐る恐る歌ってみました。でも……、一言で言うと『変化なし』(苦笑)でした。そこからは自分自身の気持ちと割と早く向き合って、『来年(23年)の8月20日をどうするか』をすぐに考えました。5月に手術をして、9月には『あっ、来年が最後になるだろうな』と」
――術後、早い段階で決断されたのですね。
「決めてからもトレーニングは続けていて、今年の2月頃までは、『もし一筋の光が目の前に現れた時は、最後にしなくてもいいかもしれない』という余白はありました。『まだ光を探していたい』っていう。でも、3月には『やらない』と決めました」
――手術やトレーニングでも自分の理想の状態には戻らなかったと。
「『高音が出ない』とか単純に解説できるものでもなくて、中音が出ない時もあれば、高音でも『この音は出るけど伸ばすのに苦労する』とか複雑で。その変化をなぜ感じるようになったかというと、8月20日があったからです。あの日に自分の過去の楽曲や歴史を振り返って、長時間のライブをやってきました。いつも8月20日に、ひとつひとつの楽曲と触れ合って、自分の声帯の状態を感じるようにしていました。でも、5~6年前の終演後に、『あれ、どうしてなんだろう』って疑問を感じ始めました」
――特別な日だからこそ、自分の中の理想があるのですね。
「新曲なら、歌ってみて今の声で難しそうだったらメロディーやキー設定を変えることで結論づけられる。でも、過去の曲に関しては、自分のこだわりが強いんですよ。どうしても『あの時をあのまま再現』したいんですよね。譲れないからこそ、こういう決断に至りました」
音楽制作、短時間のライブは継続「自由に楽曲を書いていきたいです」
――お母さまに報告は。
「決めた時は、『お母さん、本当にごめんなさい』という気持ちでした。8月20日を生きがいにして音楽人生を続けてきました。母もそれを望んで、たくさん人の前で自分の歌を歌う私を見て、喜んでくれていると思っていたので。それを自ら終わらせてしまい、今でも変わらず『ごめんね』という思いです。これは消えることはないと思う。でも、この選択にネガティブや後悔の気持ちはないんです。むしろ、一番苦しいのは自分のベストな8月20日を届けられないこと。今もこうやって歌えている自分がいるのは母のおかげで、母と出会えていなかったらここにいなかった。『ごめんなさい』の気持ちと、感謝の気持ち、その2つを伝えました。毎年8月19日にお墓参りに行っていましたが、来年からは当日に行くことになりそうです」
――20年前、路上でCD5000枚を手売りし、渋谷公会堂のチケット2000枚も自分たちで販売をして、ステージに立ちました。初めての渋公のことは覚えていますか。
「その日を迎えるまでの過程もすごく濃厚でした。当時まだ大学生のスタッフのみんなが手伝ってくれて、関わっているスタッフがみんな素人で、手探りの状態から大きなワンマン・ライブに向かっていました。『どうやってチケットを買ってもらおうか』と考えながら路上に立って、みんなと『今日は何枚売れたね』って喜びを一緒に共感できる日々。迎えた当日は、すごく静寂な時間な中で歌うことができました。あんなに大きなライブをしたことがなかったので、私自身の中でも『始まりの日』『第一歩の日』でした。20曲くらい歌ったんですけど、静かに丁寧に過ぎていって。1曲1曲、何を考えて歌っていたのか今も思い出せます。終盤で盛り上がる曲をやった時に、みなさんが自然に手拍子して立ち始めてくれて、すごく感動でしたね」
――ラストの8月20日は特別な演出など考えていますか。
「初期から現在までの私のストーリー、ヒストリーをものすごく感じていただけるライブになると思います。これまではニューアルバムを発売してそれと共に迎える8月20日が多かった。そうなると、アルバムの作品が主軸になり、過去の曲が少なめになります。でも、今回は今まで応援して支えてくださった方に、より感謝の気持ちを届けたい時間なので、みなさんがきっと聴きたいんじゃないかっていう過去の楽曲を大切にセレクトしたいと思います」
――今後やりたいことは。
「音楽制作や短時間のライブは続けていきます。創作の“源泉”に戻って、もっともっと自由にいろんな観点、視点を持って楽曲を書いていきたいです」
□川嶋あい 1986年2月21日、福岡県生まれ。2002年6月23日にキーボードで路上ライブをスタート。学生たちとCDを手売りし、03年に音楽ユニット・I WiSHのaiとしてフジテレビ系『あいのり』の主題歌『明日への扉』でデビュー。同年、育ての母の命日である8月20日に東京・渋谷公会堂でワンマン・ライブを実現。代表曲に『My Love』『compass』『大丈夫だよ』『とびら』など。『旅立ちの日に・・・』は卒業ソングの定番曲となっている。また、海外での学校建設をライフワークにしている。