蝶野正洋、武藤の引退試合で現役続行に“火” 「まだダブル引退じゃない。そういう意識もない」
ノアの2・21東京ドーム大会で武藤敬司が引退した。昭和・平成を彩った闘魂三銃士の終焉(しゅうえん)が告げられる中、残された唯一の現役が黒のカリスマ・蝶野正洋だ。武藤の引退興行では即席マッチにもかかわらず、代名詞のSTFを披露し、健在ぶりをアピールした。今後レスラーとしてリング復帰を目指していく考えはあるのか。あれから1か月、蝶野に心境を聞いた。
武藤戦実現の知られざる舞台裏 テーピングもニーブレスもなかった左膝
ノアの2・21東京ドーム大会で武藤敬司が引退した。昭和・平成を彩った闘魂三銃士の終焉(しゅうえん)が告げられる中、残された唯一の現役が黒のカリスマ・蝶野正洋だ。武藤の引退興行では即席マッチにもかかわらず、代名詞のSTFを披露し、健在ぶりをアピールした。今後レスラーとしてリング復帰を目指していく考えはあるのか。あれから1か月、蝶野に心境を聞いた。(取材・文=水沼一夫)
3万人を熱狂させた武藤の引退試合。それはゲスト解説を務めた蝶野にとっても特別な大会だった。
「あらためて素晴らしい引退試合だったなと。武藤さんらしさが出ていましたよね。最初は体がもう動かないというしんみりした感じの流れが来ていたし、俺自身もケガであったりとか手術であったりで、どちらかと言ったら三銃士の終焉的な、しっとり感のある引退式に行くのかなというのがあったんだけど、振り返ると、記者会見のときからなんか2人で笑いが出るような会見をやっていたしね。最後も武藤さんの会見なんか、みんな笑いが出ていたじゃない。『このあと業界盛り上がらなかったらあいつのせいだ』みたいなね。何かカラっとした武藤さんらしい引退試合だったなという感想ですよね」
内藤哲也とのメインイベントを終えた直後、武藤から「蝶野! 俺と戦え」とリングインを促された。その場でサングラスを外し、コートを脱いで、即席マッチが始まった。蝶野はロックアップからシャイニングケンカキック、STFと流れるような動きを披露。実に2014年以来8年ぶりのリングで、武藤からも「よくあいつ、あそこまで動けたよ」と驚かれるほどだった。
思わぬサプライズを演出し、感動的なフィナーレとなったが、蝶野自身は精一杯の動きだったと語る。
「何も準備していなかった。もう最初ロックアップしたときに(左膝が)ガクンときちゃって…。力が入らないんだよ。あーどうしようっていう。試合のちょっとした動きをするんだったら、本当は膝にテーピングでもちゃんと巻いていたんだけど、何もやってなかったからね」
蝶野にとって左膝は爆弾だ。03年5月2日の小橋建太戦の前に負傷し、内側と前十字じん帯を断裂している。以来、リングに上がるときは左膝にテーピングやニーブレスを欠かさない。それが短時間とはいえ、“素足”で戦ってしまった。
「普通あの呼び入れ方はないだろうと。公衆の前でね…あんな口説き方はないだろう。でも、あれは名言だよね」
武藤の呼びかけには応えたが、恨み節を交えるほど。翌日には反動もあった。左膝の外側じん帯に痛みが走り、痛み止めを服用した。「1本しかじん帯がないじゃない。もうちょっとしたら切れていたよね。じじいは気をつけないと危ないんだよ」。苦笑いするほど綱渡りの状態だった。
大会後は、ネットを中心に「三銃士と四天王の時代が終わった」との声が高まった。新日本プロレスで一時代を築いた闘魂三銃士は、橋本真也さんが05年に亡くなり、武藤の引退で、残るは蝶野1人。その蝶野もほぼリタイア状態なため、時代の終焉と受け止められた。
蝶野も「それでいいと思う。あれだけ盛大なものはもうできないでしょう」と異論はない。武藤との試合は「カーテンコール」のつもりだったという。「ちょっと前に武藤さんには『もし俺が最後に何かできるとしたら、たぶん舞台で言うカーテンコールだろうねって話をしたから。だから最後にみんなが舞台あいさつだよね。三銃士であれ、三沢(光晴)社長であれというのがそこにね」。戦ったノアのリングは三沢さんが創設した団体。そこに武藤、蝶野がいた。それは思いがけなくも時代を彩ったスターたちが再びリングに戻り、喝采を浴びた瞬間だった。
「ずっと無理だ無理だ無理だとは言ってきたけど…」 武藤の声がけに蝶野が出した答え
できれば、武藤の正式な対戦相手を務めたい気持ちもあった。
「夏前ぐらいのところで、(ノアサイドから)『蝶野さん、2月ぐらいってどうなんでしょうか?』という話があって。状態は良くなったり悪くなったりと波があって、とても体を動かせる状況じゃない。間に合う、間に合わないという状況じゃなかったので、『俺は無理だよ』と伝えて」
蝶野との対戦は何より、武藤自身が望んでいた。
「引退発表する半年ぐらい前ですよね。武藤さんと仕事が一緒で、そのとき、『最後やっぱ俺、おまえと引退試合やりたいんだ。一緒にダブル引退しようよ』みたいな話をしてきたからね。冗談だと思っていたけど、でもこの間のドームなんか、本当に最後は一緒にやりたかったんだなっていうのが伝わってきたよね」
ともに同期、デビュー戦で戦った間柄だ。蝶野も早い段階から武藤の気持ちは分かっていた。21年、脊柱管狭窄症の手術を受け、試合はおろか、歩行さえもままならない状態になった。それでもリハビリを続け、リングを見据えて少しずつ、努力を始めた。
「武藤さんは1年ぐらいアプローチしてたよね。それも刺激になって。みんな励ましてくれた。長州(力)さんなんかも『おまえ大丈夫か』って会うたびに言ってくれてね」
しかし、どれだけムチを打っても体は動かなかった。
「真夜中に犬の散歩なんかしているときに、誰もいない公園でちょっと走る練習をしてみたけど、走れない。左足がまだ踏ん張れない。あ、これ無理だなと。普通にゆっくり歩く分ならいいけど、体に重心かけて踏ん張ることが全くできない。足首が返れないんですよ」
時間は待ってはくれない。「向こうが途中でやっぱり引退試合やりたいって言ってたけど、それに俺が応えられるような状況でも年齢でもないということで、本当ずっとやりたかったっていう気持ちがあったと思う。俺も声をかけられてから、ずっとその思いがあったけど、思ったような回復につながらなかった」。可能性を模索しつつも、正式な試合を断念した裏には人知れぬ葛藤があった。
自身の現役生活についてはどう思っているのか。武藤の「ダブル引退しようよ」という言葉が残響となって響いている。その受け止めは?
これについて聞くと、蝶野は「まだダブル引退じゃないよね。俺的にやっぱちゃんと準備も何もできていなかったし、そういう意識もないしね。まだ(引退は)できてない」と言い切った。
サプライズで武藤戦が実現したものの、蝶野自身のケジメはまだついていない。
武藤から1年にわたりラブコールを受ける中で、気持ちは確実に前を向いた。「2月が近づいてくるに従って、治療のピッチもずっと上げてて、はり、整体、それからペインクリニックと言って痛み止めを打ったりするような治療のやり方があるんだけど、その3つはかなりペースを上げてやっていた」と、リハビリを懸命にこなしてきた。
刺激を受ける存在もいる。15年に同じ手術を経験し、69歳にして現役を続ける藤波辰爾だ。「藤波さんから『絶対治るから。絶対心配するな』と言われて。やっぱりすごいなと。一つの目標にはなりますよね」と、背中を押されている。
武藤の引退で「ちょっとひと段落しちゃったですよね」と気持ちが緩んだ部分も素直に認める。詰め込んだ治療のペースもいったんは見直している。状態は少しずつ上向いてるが、マイペースに調整していく姿勢は変わらない。
「いろいろけがしながらやってきたけど、自分なりに思っている回復のペースが、どうしても20年前30年前とは違う。どんなに焦っても年齢が年齢なので、もう少しゆっくりやらなきゃいけない」
一方で、59歳にして東京ドームという舞台を経験したことで、目標を持つことの大切さを改めて感じている。
「何もないとのらりくらりしてしまうけど、何かに備えてっていうのが一つの目標になったよね。ずっと無理だ無理だ無理だとは言ってきたけど、それでも(プロレスは)絶対何か仕掛けてくる。脊椎のけがしたときも、『試合できなくても、エプロンに立つだけでもいいから立ってくれ』と言われてね。『いや、立ったら試合をやんなきゃいけないじゃん』と言ったけれど、プロレスの興行はやっぱりそういう世界だから。いつ、どこで、どう借り出されるか分からないからね」と気を引き締め、これからも自身のコンディションを整えていくことを約束した。
□蝶野正洋(ちょうの・まさひろ)1963年9月17日、東京都出身。84年、新日本プロレスに入門。黒のカリスマとしてnWoブームをけん引。99年、ファッションブランド「ARISTRIST(アリストトリスト)」を設立。2010年に退団。現在はYouTube「蝶野チャンネル」が人気を集めるほか、NWHスポーツ救命協会代表理事、日本消防協会「消防応援団」、日本AED財団「AED大使」、日本寄付財団アンバサダーを務める。