「余命2年」宣告から白血病と闘った俳優、命を救われた骨髄移植 ドナーの女性にささげた演技
俳優の樋口大悟(45)が企画・原案・主演を務める映画『みんな生きている ~二つ目の誕生日~』(両沢和幸監督)が4日から新宿K’s Cinema(東京都新宿)など全国で順次公開される。25歳のときに「急性骨髄性白血病」で「余命2年」と宣告された樋口は、5年間の闘病生活を経て骨髄移植によって命を救われた。同じ病気に苦しんでいる人や、その家族を支えたい。命をつないでくれた関西在住と知らされたドナーの女性に感謝を伝えたいと、同映画の制作に力を注いだという。
「明日の朝、目が覚めるか分からない」 インタビュー中に声が震えた
俳優の樋口大悟(45)が企画・原案・主演を務める映画『みんな生きている ~二つ目の誕生日~』(両沢和幸監督)が4日から新宿K’s Cinema(東京都新宿)など全国で順次公開される。25歳のときに「急性骨髄性白血病」で「余命2年」と宣告された樋口は、5年間の闘病生活を経て骨髄移植によって命を救われた。同じ病気に苦しんでいる人や、その家族を支えたい。命をつないでくれた関西在住と知らされたドナーの女性に感謝を伝えたいと、同映画の制作に力を注いだという。(取材・文=西村綾乃)
映画は樋口の闘病生活を元にした実話。白血病の青年を樋口が、骨髄の提供を依頼された女性を俳優の松本若菜が演じた。ドラマ『ナースのお仕事』などの制作に関わった両沢和幸が脚本と監督を担当した同作は、患者側の視点だけではなく、骨髄ドナー提供者を取り巻く環境についても描かれていることが特徴だ。
「得意の空手を生かしたいとアクション俳優を目指していた25歳のときに、病気が分かりました。やりたいことが見つかって、これからというとき。当時よく通っていた渋谷の街が、モノクロの世界に見えたことを覚えています。病気を知るまでは、自分も同じように笑っていたのに。当たり前のように未来を見て生きている同年代の人たちを遠くに感じて、取り残されたような気持ちになりました」
重症度は8段階で中ぐらい。抗がん剤による嘔吐や高熱により、鍛えた身体はやせ細った。治療が奏功し、26歳の4月に寛解し退院するも再発。担当医から「助かる唯一の方法は骨髄移植のみ」と告げられた。
「明日の朝、目が覚めるか分からない」。よどみなく語っていた樋口の声が、大きく震えた。「起きている時間が苦しく、寝てばかりいた」という日々は、常に死が隣り合わせだった。周囲に弱い姿を見られぬよう看護師に話しかけられても「修行中」と告げ、布団にくるまって声を殺し涙した日もあった。
「治療を続けて生きることができても、俳優として社会に戻ることはできないのではないか。それは死と同じくらい恐怖でした。白血球の型が適合するドナーが見つかる保証もない。先が見えないことで、心を痛めてしまう人も多いんです」
骨髄移植に良いイメージをもっていなかった樋口は、再発後3年間悩み続けた。ただ、ある時、数値が急激に下がり、担当医から「移植をするなら、いま」と言われ、移植を受けることを決心した。
「『どうせ死ぬなら、外で好きなことをしたい』。『お前らにオレの気持ちなんて分からない』というセリフは、僕自身が闘病中に感じていた本心です。落ちるところまで落ちて、もうこれ以上落ちることができないと気付いたら、もう上がるしかなかった。自分のためだけに頑張ることは限界があるけれど、誰かのためになら頑張ることができる。『母よりも先に死ねない』と、病室では毎日元の日常に戻ることをイメージしました。元々ポジティブなので、どうしたらこの状況を前向きにとらえられるのかを考えてました。25歳で発症し生存率は10%だと言われたときに、『僕はその10%の中にいるから、100%助かるんだ』と信じたことを思い出しました」
骨髄・末梢血幹細胞を提供できる年齢は18歳以上、55歳以下と決まっている。現在、54万人の骨髄バンク登録者がいるが、半数以上が40から50代という現実がある。「若い人に知ってもらうことで、助かる命が増えれば」と学校や企業などで講演活動も始めた。
樋口は「ただ生きるのではなく、“活き活きと”生きたい」と力強く語る。命の恩人である「関西地方に住む同世代の女性」への感謝を胸に、「命の大切さや、生きる意味を伝えることをライフワークにしていきたい」。
■樋口大悟(ひぐち・だいご)1977年、新潟県生まれ。映画やCMなどを中心に活躍中。大ヒットした映画『カメラを止めるな!』など多数の出演作がある。