「日高屋」81歳の創業者、飽きのこない味の極意 開発担当に「おいしくし過ぎないでね」

ラーメンが定番メニューの中華料理チェーン「日高屋」を展開する「株式会社ハイデイ日高」(さいたま市)が、今年2月に創業50周年を迎えた。1973年2月に、同社の神田正・現会長(81)がさいたま市に中華料理店を開店したのがきっかけ。「屋台の代替え、おふくろの味」をコンセプトに経営規模を拡大し、2002年に現在の主力業態である日高屋の展開を開始。首都圏を中心に400店舗以上を構え、庶民に愛される有名チェーンへと成長させた。「1人で始めて、あっという間の50年」。創業者の神田会長の“たたき上げ”のラーメン人生、顧客と従業員を大事にする経営哲学について聞いた。

「株式会社ハイデイ日高」神田正会長はパワフルにグループを引っ張っている【写真:ENCOUNT編集部】
「株式会社ハイデイ日高」神田正会長はパワフルにグループを引っ張っている【写真:ENCOUNT編集部】

「株式会社ハイデイ日高」創業50周年 従業員支援策でベースアップとインフレ手当を検討

 ラーメンが定番メニューの中華料理チェーン「日高屋」を展開する「株式会社ハイデイ日高」(さいたま市)が、今年2月に創業50周年を迎えた。1973年2月に、同社の神田正・現会長(81)がさいたま市に中華料理店を開店したのがきっかけ。「屋台の代替え、おふくろの味」をコンセプトに経営規模を拡大し、2002年に現在の主力業態である日高屋の展開を開始。首都圏を中心に400店舗以上を構え、庶民に愛される有名チェーンへと成長させた。「1人で始めて、あっという間の50年」。創業者の神田会長の“たたき上げ”のラーメン人生、顧客と従業員を大事にする経営哲学について聞いた。(取材・文=吉原知也)

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「まさかこんなに長くラーメンに携わるとは、夢にも思わなかったですよ」。

 埼玉出身で、「おやじが中国から傷痍軍人として帰ってきて早くに亡くなりました。おふくろが近くのゴルフ場のキャディーをしながら4人の子どもを育ててくれました。今振り返ると、貧乏が自分の人生の大きな宝になったんですよ」。中学を卒業後は「何をやっても飽きて務まらない」。スーパーカブを売ったり、ラーメン店を出したり、スナック経営に乗り出したことも。どれも長続きしなかった。

「ラーメンの仕事に初めて就いたのは、20歳ぐらいの時、友達から誘われてね。ラーメンの神様に怒られちゃうかもしれないけど、たまたまラーメン屋だったんですよ。この業界でいけると思った理由は2つあるんです。調理が比較的簡単で、半年やったらできるようになった。それと、商売のシステムですね。出前担当でキャベツや肉を朝に仕入れていたのですが、ツケで買うんですよ。それが夜になると現金になって、1か月半後に仕入れ代金を支払う。製造業だと大変な設備投資が必要で、手形を発行することになります。なので、このラーメンの商売はいいな、と子どもながらにピンときたんですよ。我ながらいいところに目を付けたな、と。これまでの経営で、お金に苦しんだことはないです」。経営者への目覚めでもあった。

 それでも、失敗の連続。そこでたまたま大宮に飲みに行って貸店舗を見つけたのが、“日高屋の始まり”だ。1973年2月、中華料理店「来々軒」をさいたま市大宮区宮町で創業。どんどん客が入るようになり、人手が足りなくなって弟を呼んだ。前社長の高橋均・現相談役も“創業メンバー”の1人だ。

 好調な売れ行きに自信を得て、数年でチェーン化を決意した。開店初期から手伝ってくれたメンバーに残留交渉し、「経理や家賃の数字をオープンにしました」と誠意を示した。昼夜ぶっ通しで働き詰めていた当初は、眠らずに働いて体重が40キロ台まで落ちたことも。身を粉にして働いた。

 それに、神田会長には先見の明があった。それは当時主流だった屋台の行く末だった。「当時は駅を降りると、おでん屋やラーメン屋が駅前に並んでいて、サラリーマンが夜遅くまで通い詰めていたんです。しかし、衛生面や道路整備などの事情で、これから屋台はなくなると見たんです。じゃあ、みんなどこに行くんだろう。そこで、『屋台のお客さんを追っていこう、食べてもらおう』と思い付きました。それが日高屋の原点なんですよ」。これから商機がやってくると従業員に熱弁した。「徐々にサラリーマンが弁当を持たなくなって手ぶらで会社に行くようになり始めていました。『お昼はサラリーマンはどこかで食事をするから、この商売は面白くなるよ。時代は変わるよ』と伝えたんです」。

 チェーン展開を加速。当初から、日高屋の経営戦略の根幹に据えられている「駅前への出店」を推し進めてきた。「屋台の代替えが基本的な考え方です。なので、駅前に店を出して深夜遅くまでやる。最低でも深夜1、2時、朝までやって。かっこよく言えば、時代を先に読んだのかな」。日々満員電車に乗って働く人たちの胃袋をわしづかみにした。

青野敬成社長(左)とがっちり手を握り合う神田正会長。信頼関係で結ばれている【写真:ENCOUNT編集部】
青野敬成社長(左)とがっちり手を握り合う神田正会長。信頼関係で結ばれている【写真:ENCOUNT編集部】

日高屋“今後の出店3本柱”は「ロードサイド、ポツンと一軒家、深夜食堂」

 2002年6月、日高屋の展開をスタート。現在、東京都、千葉県、埼玉県、神奈川県、茨城県、群馬県、栃木県の1都6県で400店舗以上の巨大チェーンとして、老若男女に親しまれている。また、「日高屋グループ」だと、日高屋のほかに焼き鳥・大衆酒場・中華など9ブランドの飲食業を運営している。

 今回、株式会社ハイデイ日高の創業50周年を記念し、新境地の特別メニュー「日高ちゃんぽん」(税込み690円)が開発された。日高屋の全店舗で3月1日からの期間限定で、4月中旬ごろまでの販売を予定している。同社の青野敬成社長は「日高屋として初めての魚介系とんこつスープを採用しました。新しい日高屋になれば」と自信を込め、「2月から1年間かけてさまざまなイベントをやっていきたいです。お客様からのリクエストメニューが多く、復刻版としていくつかのメニュー企画をやっていきたいと思っています」と今後の方針を掲げた。

 アルバイトからトップに上り詰めた48歳の若社長を見て、神田会長は「彼の人のよさ、人間性のバランス。一緒に仕事をやってきているからこそ、よく分かっているんですよ」と目を細めた。

 いつ食べても、安定の昔懐かしい味。「昔は入ってくる調理人に、『あなたは経営者のくせに何もできない』と怒られました。でも入れ替わりで入ってくる調理人さんたちに、味を教えてもらったんだよね」。そこにはある信念を貫いている。おふくろの味だ。「特徴があってインパクトがあって、すごいと言われるような味は、結局飽きられちゃうんですよ。すき焼きだって毎日食べられないでしょう。10人食べて7~8人がおいしいと言ってくれる、その味加減を心がけています。商品開発の担当者には『おいしくし過ぎないでね』と冗談で言っているんですよ(笑)」。毎日食べても飽きのこない、その境地を目指しているという。

 庶民に優しい価格設定と駅前の一等地への出店戦略。近年は地方都市のロードサイドにも注力している。神田会長は、さらなる日高屋の出店構想を示す。

「ロードサイドはうまくいっていて、コロナ禍のピンチをチャンスに変えられる。今後も道路を攻めます。それに、1日の乗降客が3万人程度の駅。私は『ポツンと一軒家』と名付けて、家賃が下がった場所を狙って、地方都市にも進出します。それと、繁華街。池袋の24時間営業店舗は過去最高の売上です。『深夜食堂』として、人手確保は大変ですが24時間店舗を広げていきたいです。交番の脇に出店するなど、治安面でも従業員の不安解消に努めます」と力を込める。

 年齢を重ねるとともに、神田会長の人生観が変化していったという。「私利私欲」から、「分かち合い」への転換だ。

「若い頃はやっぱり自分のお金のために店をやっていました。いい家を建てたい、いい車を買いたい、いい服を着たい。それが80歳を過ぎて、自分の中で完全に私利私欲がなくなりました。自分のためではなく、みんなのために、という考え方です」

 地方出店を通しての雇用促進などの社会貢献、東証プライム上場企業としての投資家への責任。そして、同社約900人の従業員たちの人生を支えるという覚悟だ。

「パート従業員を含めると、約1万人になります。数々の企業や飲食業がある中で、なぜうちの会社に入ってくれたのか。それは、会社の内部留保を大きくするためではありませんよね。従業員がそれぞれ自分の人生を幸せにするために入ってきたのだと思います。縁があって入ってきた人たちに幸せになってもらいたい。『この会社に入ってよかった』と言ってもらいたい。けっして、金もうけのためにやっているのではないのです」

 掲げる理想とは。「会社を成長させて分配する。その成長と分配のサイクルを作っていくと、従業員1人1人が自覚を持ち、だんだん経営者のようになっていくんです。働く人の気持ちをそこに持っていければ。その好循環を作っていきたいです」。思いを形に。物価高の情勢を受けた従業員への支援策として、ベースアップとインフレ手当支給といった現実的な施策を講じる予定だ。

「人間楽になったら終わり」と、仕事の意欲にあふれる大ベテラン。未曾有のパンデミックによって飲食業界はダメージを受けたが、“起死回生”を力強く誓う。「うちのおふくろは、関東大震災と戦争という2つの難局を乗り越えました。コロナ禍が終われば、また必ずよくなる。皆さんがまた外でご飯を食べようとなっていくはずです。コロナ禍がまた私に使命を与えてくれたのだと思っています。もうすぐ82歳になるので、あと3年。85まではやっていきたいです」。新規オープンする日高屋 方南町駅前店で行われた試食会。新作の日高ちゃんぽんをすすり、元気に店を後にした。

 【株式会社ハイデイ日高の主な沿革】

1973年2月、神田正・現会長によって中華料理店「来々軒」がさいたま市大宮区宮町に創業

1986年3月、さいたま市内に食材供給子会社「株式会社日高食品」を設立し、麺とギョーザの生産を開始

1998年6月、商号を「株式会社ハイデイ日高」に変更し、シンボルマーク、ブランドマークを制定

2002年6月、現在の主力業態である「日高屋」の展開をスタート。第1号店を「日高屋新宿東口店」として開店

2017年5月、店舗数400店舗を達成(フランチャイズを含む)

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