鮎川誠さん、トレードマーク「めがね」から放たれた人間性と音楽観 印象の一言「オレのことよ」
ロックミュージシャンの鮎川誠さんが29日にすい臓がんでこの世を去った。74歳だった。1970年にロックバンド・サンハウスのギタリストとしてデビューし、78年にシーナ&ロケッツを結成。以来、50年以上にわたり日本のロックを支えてきた。モデルや俳優としても活躍した高身長でスリムなスタイルにサングラス。愛用するレスポールをステージ上でかき鳴らす姿は、海外のミュージシャンさえ圧倒する存在感を放った。
追悼記事 シーナさんも同席した17年前のインタビューより
ロックミュージシャンの鮎川誠さんが29日にすい臓がんでこの世を去った。74歳だった。1970年にロックバンド・サンハウスのギタリストとしてデビューし、78年にシーナ&ロケッツを結成。以来、50年以上にわたり日本のロックを支えてきた。モデルや俳優としても活躍した高身長でスリムなスタイルにサングラス。愛用するレスポールをステージ上でかき鳴らす姿は、海外のミュージシャンさえ圧倒する存在感を放った。
鮎川誠という人物についてはこれから多くのメディアでその人柄や功績が紹介されることと思う。その中で筆者が、音楽サイトにいた2006年に取材し、現在は閲覧できない当時の記事を編集版としてENCOUNTに掲載する。
テーマは「めがねロック」。鮎川さんご自身の語りによるトレードマークの「めがね」についての話。そして鮎川さんが大好きだった「めがね野郎」たちを紹介する。ロック好きの音楽ファンに大きな愛を与えてきた鮎川誠さんに心より感謝と哀悼を込めて。(構成:福嶋剛、協力:久保田泰平)
■鮎川誠 ~めがね野郎のロックンロール~
(2006年9月22日掲載、原文のまま紹介)
「めがね野郎のロック」ちゅうて、まず思うことはオレのことよ。
結構自分で意識しとんのですよ、めがねかけてロックしとるっちゅうのを。でもね、自分がめがねをかけ始めた高校時代はね、すごくコンプレックスやった。世間一般的にはね、めがねってかけないことに越したことはないっていうよな、そういう時代の育ちだったんですよ。
そんな頃に、いきなり僕の前に現れたのがピーターとゴードン。ビートルズとかキンクスとかアニマルズとかは、みんなかっこいい奴らだったけど、ピーターとゴードンを見たときに、なんかもう……目が悪くなって落ち込んどった僕に勇気を与えてくれたんよね。
そのあと、ジョン・レノンがめがねをかけたのを見たときも、またフレッシュな刺激を得てね。当時、ビートルズは媚びを売ってる代表だったやないですか。ストーンズがにらみつけるような写真ばっかりで、ガキどもはそういう奴らが歌うブルースにシビレまくっとったわけだけど、ビートルズはいつもニコニコしてたイメージで。そんななかで、ジョン・レノンが丸い針金のめがねをかけだして。で、今度はそのめがねを買いに行って……ジョン・レノンにも僕は勇気をもらったなあ。
「めがねロック」のオリジネイターちゅうたら、やっぱバディ・ホリーやろうね。彼が最初の道を拓いたんだと思う。ピーターとゴードンもハンク・マーヴィンも彼に勇気をもらったんじゃないのかな。……本当のところは知らんけど。やっぱね、人前でギター弾くときに、めがねかけてないほうがいいと思うんよ、できることなら。やっぱめがねっていうのは堅かったりさ、人に余計な気を遣わせたりするからね。なんかね、現実感をいっしょに持ち込んでいる感じがあるんですよ。
でも、めがねのおかげで、その人の音楽をもうちょっと深く聴かんといかんのやないかって思うこともあった。そういやあ、インターネットで「めがねロック」ちゅうので探してみたら、「むかし鮎川誠、いまサンボマスター」とか書いとるのがあって、「オレはむかしのじゃねえぞ!」って思った(笑)。
鮎川誠が愛した「めがねロッカー」
□ピーターとゴードン~僕の第1号のめがね
当時、ピーターとゴードンみたいなめがねを買おうと思ってめがね屋さんに行ったんだけど、その時代のめがねっちゅうたらね、学校の先生みたいなのばっかりで「オレはこんなめがねをかけている人の仲間入りはしたくねえなあ」って思いよったの。
そしたら、店の隅っこのほうにピーターとゴードンみたいな黒ブチのめがねがあってね、それを僕の第1号のめがねにしたんよ。でもね、当時はピーターとゴードンみたいな黒ブチのめがねとかかけてるやつはほとんどいなかったから、友達から「なんかぁ、そのめがねは?」ってよう言われよった。自分がかけてためがねが遠視矯正用のめがねだったってことをあとから知ったんで、まあ、みんなの反応も間違ってはいなかったんやけどね(笑)。
□バディー・ホリー~ロックはみんながいっしょに喜べるもの
めがねロッカーの代表ですね。バディー・ホリーは、イギリスだとプレスリーよりも贔屓が勝っとったっていうことをよく聞いとって。やっぱね、プレスリーは反感買うのよ。独り占めというかね、映画でもひとりだけいい役持っていくし。ロックが好きなやつのなかには、そういうの我慢ならんやつがおるわけよ。
ロックって、みんながいっしょに喜べる、リベラルで自由で、共有感がすごく大事やけん、プレスリーばっかいい格好しても「なんやおまえ」って感じで。音楽は深いし、天才やし、クリエイティヴやし、しかも色男だから、そういうところは認めるし、好きなんやけど、好きって言うてしまったら自分の価値が下がるというかね、そういうときに「バディー・ホリー」って言うておけばいいというか(笑)。
□エルヴィス・コステロ~来日公演の前座で味わったほろ苦い経験
コステロが出てきたとき、ヘンなのが出てきたねえって思いながら、すごく親しみを感じたんですよ。で、『My Aim Is True』ってアルバムを聴いたんやけど、これはちょっとイマイチかなあ、パンクじゃないなあって感じはあったんですよ。この人は「歌系」なんかなあって思って。名前もヘンだし、スティッフ・レコードっちゅう、新しいムーヴメントを起こそうとしているレコード会社から出してたのもうらやましかったから、すぐに受け入れたんです。
僕もコステロに似てるって当時よく言われたんですよ。ちょうどシーナ&ロケッツでデビューしたのが78年で、コステロは『This Years Model』っていうアルバムを出して、で、日本にツアーで初めて来たときに、僕らがオープニング・アクトを務めたんだけど、ステージに出て行ったときに、失笑みたいなのが上がってね、それがオレに火をつけて。おかげでね、ものすごい気合いの入った演奏ができて、いい想い出になった。
取材後記
「めがねロック」という取材テーマは、当時、所属していたレーベルの社長からご提案いただいた。鮎川さんのトレードマークについて掘り下げることで彼の人柄と好きな音楽を探っていこうという企画だ。
取材当日、シーナさんとおふたりで所属レコード会社のビクターの会議室に現れた。鮎川さんは、「おー、きたか」と開口一番。当時駆け出しの無名な音楽サイトにもかかわらず「あんたのとこのホームページは前から知っとったよ。プレイリストちゅう選曲とみんなの感想は面白い。とても良いことをやっとるよ」とこちらの緊張をほぐすように話をしてくれた。
するとシーナさんが「まこちゃんは、自分で(好きな音楽の)データベース作って『DOS/Vブルース』(幻冬舎刊)ちゅうパソコンの本も出しとるんよ。凝り性で熱中したら部屋から出てこないの」と笑顔で話しながら、まるで雑談をするかのように好きな音楽について長時間、熱く語ってくれた。
鮎川誠さんが遺してくれたロックと彼が大切にしてきた音楽。――私たち音楽ファンが次の世代につないでいかなくてはいけない。そう思った。