義足のファイター・谷津嘉章がパラレスリング設立のためデモンストレーション パラリンピックに向けて第一歩
“義足のファイター”谷津嘉章の挑戦が止まらない。2019年に糖尿病により右足のひざ下を失った谷津だが「人生、常にチャレンジ!」と前向きに過酷なリハビリに挑んだ。周囲を驚かせる驚異のスピードで義足を使いこなし、2020東京五輪の聖火ランナーを経て、21年にプロレスラーとしてリング復帰を果たしている。
毎週金曜日午後8時更新 柴田惣一のプロレスワンダーランド【連載vol.129】
“義足のファイター”谷津嘉章の挑戦が止まらない。2019年に糖尿病により右足のひざ下を失った谷津だが「人生、常にチャレンジ!」と前向きに過酷なリハビリに挑んだ。周囲を驚かせる驚異のスピードで義足を使いこなし、2020東京五輪の聖火ランナーを経て、21年にプロレスラーとしてリング復帰を果たしている。
それだけでもすごいことなのに、現状で満足せず「オリャ!」とばかり、次なる目標に踏み出した。世界初のパラレスリング協会の設立であり、国際化からのパラリンピック・日本代表への選出、そして金メダルだ。
自らが先頭に立ち、まずはNCWA(NIPPON CHALLEGED WRESTLING ASSOCIATIN=日本障がい者レスリング連盟)を設立。障がい者が活躍できるパラレスリングの競技化を目指している。
第一歩として、レスリング第22回全日本マスターズ選手権(22日、千葉・佐倉市民体育館)で、デモンストレーション。群馬県邑楽郡出身の同郷であり、レスリングからプロレスラーと同じ道を進んだ盟友・島田宏と1ピリオドの実戦スパーリングを披露する。
育英大学(群馬県高崎市)の協力の元、トレーニングやスパーリングに打ち込む日々。「学生さんたちに全く歯が立たない」と苦笑いだが、1970年代、全日本選手権を制覇し、76年モントリオール五輪8位入賞。日本のボイコットにより幻に終わったが、80年モスクワ五輪では金メダルを確実視されたアスリートである。そのポテンシャルはハンディを負っても一目置かれている。
「レスリングほど体幹が大切で、鍛えられるスポーツはない」と胸を張る谷津。障がい者がパラレスリングに取り組むことで、得るものは大きいという。またレスリング経験者で障がいを持った者たちも、パラレスリングが立ち上がれば再びマットの感触を味わうことができる。
昨年8月からレスリング用の体作りに集中。「プロレス用の体とアマレス用の体は別物」と、スペシャルメニューをこなす。現在のメニューが正しいのか、修正が必要なのか。試行錯誤を繰り返すことになる。とにかく実戦で試す機会が欠かせない。
1・22マスターズ大会のエキシビションマッチで、パラレスリングの可能性を披露し、次のステップに進む。7月1日(土)~2日(日)の全日本社会人選手権(埼玉・富士見市立総合体育館)を見据えている。
「俺の姿を見て、パラレスリングっていいじゃないか。自分もやってみたいという人たちが出て来るはず」と、パラレスラーの登場を待ち望んでいる。
無論、その道が険しいことは覚悟の上だ。「俺と同じように動けるような選手が出て来るには時間がかかる。でも、挑戦しなくては何も始まらない。チャレンジだよ」と明るく笑い飛ばした。
日本でスタートさせ、世界に普及させる。「俺のゴールはパラリンピックでのパラレスリング開催。いくつになっているか分からないけど、俺自身が日本代表になって金メダル。急がないと、俺も生きていられない」と豪快に笑う。
多様性の時代。あらゆる可能性を見出し、希望の光を灯したい。レスリング出身で、障がいを持った谷津が進むべき道は見えた。谷津にしかできないことだろう。
困難な道のりは十分、承知している。しかし「だからこそやりがいがある」と意気込む。いつ何時でも、あくまでポジティブ。
師匠・アントニオ猪木さんは、自身の引退試合後「道」を朗読する前に「人は歩みを止めた時に、そして挑戦を諦めた時に、年老いていくのだと思います」と思いを明かした。
谷津を見ていると、その名言が思い出される。
“凄いヤツ”谷津嘉章。66歳の青春はまだまだ続く。