【緊急連載】志村けんのコメディー人生(1)「全員集合」スタート直前に脱走したボーヤ時代

現代の喜劇王、生粋のコメディアンとして活躍中だった志村けんが突然に逝ってしまった。享年70。先輩であり盟友の加藤茶が“日本の宝”と言い、後輩の爆笑問題が“みんなが遺族”と表現して哀悼の意を表している存在。あまりにも大きな喪失感は、その年齢や急逝となってしまった経緯はもちろんのこと、老若男女から愛され、芸能界の後輩たちからも慕われた芸風や人柄によるものだろう。なによりバリバリの現役であっただけに、とてつもない悲しみ、現実を受け入れられない気持ちは国民の総意と言っても過言ではない。

ブレイクのきっかけとなった「志村ケンの全員集合 東村山音頭」(1976年)アナログジャケット【提供:鈴木啓之】
ブレイクのきっかけとなった「志村ケンの全員集合 東村山音頭」(1976年)アナログジャケット【提供:鈴木啓之】

ザ・ドリフターズのボーヤ~逃亡~マックボンボン~加藤の口利きで再びボーヤに

 現代の喜劇王、生粋のコメディアンとして活躍中だった志村けんが突然に逝ってしまった。享年70。先輩であり盟友の加藤茶が“日本の宝”と言い、後輩の爆笑問題が“みんなが遺族”と表現して哀悼の意を表している存在。あまりにも大きな喪失感は、その年齢や急逝となってしまった経緯はもちろんのこと、老若男女から愛され、芸能界の後輩たちからも慕われた芸風や人柄によるものだろう。なによりバリバリの現役であっただけに、とてつもない悲しみ、現実を受け入れられない気持ちは国民の総意と言っても過言ではない。

 1974年4月、人気絶頂のザ・ドリフターズで最年長だった荒井注のグループ脱退に伴い、正式メンバーとなったのが志村けんであった。リーダーのいかりや長介よりも3歳年長だった荒井と交代する形となった志村はその時24歳。それまで一番若かった加藤茶とでさえ7歳、荒井とは実に22歳もの差があったわけで、そのプレッシャーは計り知れないものであったろう。「8時だョ!全員集合」に前年10月から見習生として出演していた志村の名前が初めて台本にクレジットされたのは73年12月8日の放送からだったという。それから約4か月後に正式メンバーとして番組に出始めてからもすぐに人気が出たわけではなかった。

 さらに遡ると、教員であった厳格な父親への反発からコメディアンを目指した志村が、ザ・ドリフターズのいかりやの自宅をいきなり訪ねたのは、高校卒業を間近に控えた1968年2月のことだった。今では考えられないが、当時は芸能人名鑑に自宅の住所が記載されていた大らかな時代だった。それから約1年半にわたってボーヤ(=バンドボーイ。付き人のこと)を務めた後、「8時だョ!全員集合」がスタートする直前に脱走してしまう。それでも1年後に加藤の口ききでボーヤに復帰した志村は、恩人である加藤の家に居候して、時には主従逆転となる居心地のよい日々を過ごしたらしい。後にコントで見せた絶妙なコンビネーションの基盤はその頃に築かれたものとおぼしい。

 1972年、ボーヤ仲間の井山淳とコント作りをはじめた志村は、ドリフの前座を務めたりしていたが、やがて二人で“マックボンボン”を結成してデビューする。芸名は父の名前“憲司”からとって“志村健”とした。その年の10月、日本テレビ「ぎんぎら!ボンボン!」のレギュラー出演が決まる。かの「シャボン玉ホリデー」の後番組として作曲家・都倉俊一の司会で始まった鳴り物入りの音楽バラエティー、しかもいきなりの冠番組という幸運であったが、テレビ界の壁は厚かった。人気を得られないままに番組も終了。そのショックで蒸発してしまった井山の代わりに、やはりドリフのボーヤだった福田正夫を迎えて再結成されたマックボンボンだったが、結局成功を掴むことは出来ずに解散。志村はボーヤからの再出発を決意して再びいかりやを訪ねたのである。
(続く)

□鈴木啓之/スズキヒロユキ
アーカイヴァー。1965年東京生まれ。テレビ番組制作会社勤務の後、中古レコード店経営を経て、ライター及びプロデュース業。昭和の歌謡曲、テレビ、映画について雑誌などへの寄稿、CDやDVDの監修・解説を主に手がける。主な著書に「東京レコード散歩」「アイドルコレクション80’s」「昭和のレコード デザイン集」「昭和歌謡レコード大全」「王様のレコード」など。

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