教員のブラック労働、現役教師が顔出しで待遇改善を訴えるワケ「普通だったら耐えられない」
昨年3月、教員志望者の増加を目的に文部科学省主導で行われた「#教師のバトン」プロジェクトが炎上、結果的にこれまであまり語られてこなかった教員の過酷な勤務実態が明らかとなった。教員の働き方改革が急務となっているなか、岐阜県の公立高校に勤務する現役高校教員の西村祐二さんは、教育現場の労働環境改善を訴え顔と実名を公にして署名活動を行っている。
公立高校に勤務する現役の高校教員ながら、顔と実名を公にして活動
昨年3月、教員志望者の増加を目的に文部科学省主導で行われた「#教師のバトン」プロジェクトが炎上、結果的にこれまであまり語られてこなかった教員の過酷な勤務実態が明らかとなった。教員の働き方改革が急務となっているなか、岐阜県の公立高校に勤務する現役高校教員の西村祐二さんは、教育現場の労働環境改善を訴え顔と実名を公にして署名活動を行っている。
実は、西村さんが教員になったのは30歳を過ぎてから。関西の大学で教員免許を取得するも、演劇に興味を持ち大学卒業後は東京・下北沢で役者をしながら映像制作に携わった。29歳のとき、20代の集大成となる自主映画を制作。それを区切りに、あらためて教員としての道を志したという。
「子どもの頃から教師になりたいという気持ちはありましたが、一言でいうと、大学を卒業した22歳で『先生』と呼ばれる自信がなかった。高校時代の恩師が歴史の授業で分かりやすく演技を交えて教える方で、そこから演技や演劇に興味を持つようになり、大学を出た後は監督兼脚本兼主演のような感じで映画を撮っていました。自信を持って制作した自主映画はまったく評価されなかったものの、やりたいことに打ち込んで、生きたかいがあったと思いました。そうした経験を経て、あらためて30歳で子どもの前に立つ覚悟が固まったという感じです」
30歳で教員採用試験に合格、大学院で2年間教育について学び、32歳で初めて教壇に立った。22歳で教員になっていたら、自分もそのまま疑問を抱かずに過ごしたかもしれないという。勤め始めて数年がたったとき、「教員の働き方はおかしい」と思うようになった。
「兵庫県生まれで、中学生の時に阪神淡路大震災を経験して、同級生が亡くなったり、学校が遺体安置所になるという経験をしました。それからずっと、生きるとは何か、世のため人のためになるとはどんなことかということを考えてきました。自分で作った映画も『生と死』や『人生』がテーマでした。学校ではある日突然隣の教師が倒れても、さも当たり前のように毎日が流れていきます。でも教育の現場で人の命が軽く扱われていることが絶対におかしい」
待遇改善を訴える記者会見を実施、国会から参考人招致を受けたことも
学校現場の現状に疑問を抱き、教員5年目にツイッターを開設。同じように声を上げる教員たちとSNSでつながり、6年目の2017年には、顔と実名を伏せて待遇改善を訴える記者会見を行った。
「私よりも前から教師の待遇改善を求めて活動されている先生もいたんです。そういう人はスーパーマンなのだと想像していましたが、実際にお会いしたら僕よりも若いごく普通の先生たち。そうした普通の先生たちが、なけなしの勇気を振り絞って発信していた。それを見て私も、ほんの少しでも教育界に貢献しなくてはと思ったんです」
記者会見にはテレビ3台、報道関係者30人ほどが集まり、ニュース番組でも取り上げられた。その後もしばらくは仮名で活動していたが、教育現場を代表して国会から参考人招致を受けたことを機に実名を公表。現在も高校勤務の傍ら活動を継続しているが、職場で居心地の悪さは感じないのだろうか。
「正直、普通の精神だったら耐えられないと思います。教育委員会を含めて全方位から発信を見られているわけで、今後人事に影響を及ぼすかもしれないと思っています。ただ、顔と名前を出している以上、間違ったことは言わないように気をつけていますし、むしろ今は同僚や生徒に伝えたいことをツイッターで発言しています」
教員の待遇改善が進まない裏には、財源の問題の他、教員特有のメンタリティーにも原因があるのではと西村さんはいう。
「教師の多くは、学生時代に学校に適応していた人が戻ってきがちなので、異常な世界を異常と捉えられないことが多いと思います。『大変でも文句を言わず我慢するのが“聖職”たる教師』という価値観も根強いです。なかなか周囲の理解を得られないこともありますが、残業代が欲しいというよりも、無制限に残業が発生する環境に歯止めをかけたい。現実にうつ病などで休職する教師が年間5000人もいる中、訴えたいのは金目の話ではなく、命の話。世論の高まりも感じる中、最大限やれることをやらなきゃいけないと思っています」
制度改革と同時に、学校現場の中でも意識のアップデートが必要なようだ。