思い出す夢のオールスター戦「昭和の8・26」「平成の8・27」の記憶 令和で実現は?
「8・26」「8・27」といえば、長年のプロレスファンは熱いモノを抑えきれないだろう。
1979年8月26日に開催された「夢のオールスター戦」
「8・26」「8・27」といえば、長年のプロレスファンは熱いモノを抑えきれないだろう。
8・26は1979年(昭和54年)8月26日に東京・日本武道館で開催された「夢のオールスター戦」であり、8・27は2011年(平成23年)8月27日に同会場でゴングが鳴った32年ぶりの夢の祭典「ALL TOGETHER」だ。
ともに日本プロレス界のスター選手が集まり、ファンも熱狂したが、昭和版と令和版では、日本武道館の空気感が全く違っていた。
昭和版はアントニオ猪木・新日本プロレス、ジャイアント馬場・全日本プロレスに国際プロレスが参加したが、猪木VS馬場の興行戦争が激しく火花を散らしている時代だった。
それぞれの団体を支持するファンは、熱い声援をぶつけあった。観客席のアチコチでつかみかからんばかりの小競り合いが勃発。双方から煽られ、観客席でじっくり観戦するのは、なかなか大変だった。
第7試合の藤波辰巳(現・辰爾)とジャンボ鶴田、ミル・マスカラスの豪華な3人によるトリプルドロップキックは、藤波と鶴田のどちらが高く飛んだか、角度によって微妙に違って見えるため、後々までファンの論争となった。
メインイベントの馬場、猪木組VSアブドーラ・ザ・ブッチャー、タイガー・ジェット・シン組が始まると、まさに興奮の坩堝。もう二度と見られないと言われ、実際に最後のコンビ結成となったBI砲が同じリングに登場した。令和の今では想像もつかないだろうが、それだけで泣き出す者がいたのだ。すさまじい熱気だった。
猪木が掟破りの「馬場さん、俺と闘ってくれ」とマイクアピール。馬場も「よし、やろう」と応じ抱き合う2人。実現はしなかったが、その瞬間はまさに「真夏の夜の夢」だった。その夜の熱さ、ものすごいセミ時雨を、今でも体が覚えている。
対抗戦そのものだった昭和版だが、平成版は文字通りの「ALL TOGETHER」だった。この年の3月11日、東日本を大震災が襲った。想像を絶する被害の爪痕は、今もまだまだ残っている。
平成版は文字通りの「ALL TOGETHER」
被害に苦しむ人達をサポートできないか。プロレス界が一丸となって動き出し、32年ぶりの夢のオールスター戦は「東日本大震災復興支援チャリティープロレス」と銘打たれ、新日本、全日本、プロレスリング・ノアを中心に、82人のプロレスラーが参加した。
平成版は大会の趣旨をファンも理解しており、お祭りムードに包まれた。昭和版では激しいヤジも飛び交っていたが、この日は「一緒に頑張ろう」という雰囲気で温かい拍手や声援が送られた。
32年前と同じ「8・26」開催も検討さたが「一歩前へ進もう」と「8・27」と決定されたのだった。
令和の今ではボーダーレスが進み、各団体が盛んに交流している。対抗戦、交流戦のハードルは昭和の時代とは比べ物にならない。平成版の時は、チャリティーイベントとあって、友好ムードだったが、そこは興行団体同士である。交渉がすべてスムーズにいったわけではない。各団体の間を走り回ったことも、今となれば良き思い出だ。
令和でもオールスター戦がいつか開催されるだろうか。交流戦は頻繁に行われている。「後楽園ホール還暦祭」には多く選手が集まった。ただ、オールスター戦というわけではなかった。
夢の対決、ドリームコンビの結成がさほど難しくなくなった現代。「夢の祭典」への思いは昭和、平成とは違っているかも知れないが、団体、選手の数が増え、男女の壁も消えた今こそ、そして長引くコロナ禍で弱った心を元気にするためにも「令和のオースター戦」を見てみたい。その時はさらに一歩進んで「8・28」となるかも知れない。(文中敬称略)