80歳の敏腕女性プロデューサーが自伝で告白 アラン・ドロンとの熱い一夜は「余興で書いた」

英国在住の映画プロデューサー、吉崎道代さん(80)が波乱の人生をつづった「嵐を呼ぶ女」(キネマ旬報社刊)が話題になっている。吉崎さんはイタリアで映画を学び、「ニュー・シネマ・パラダイス」などを買い付け、その後、プロデューサーとして独立。1992年の米アカデミー賞では「ハワード・エンド」「クライング・ゲーム」が計15部門にノミネートされ、4賞を受賞する偉業を成し遂げた。その人生とは?

数々の名作を生みだした吉崎道代さんの半生に迫る【写真:(C)谷岡康則】
数々の名作を生みだした吉崎道代さんの半生に迫る【写真:(C)谷岡康則】

吉崎道代さんインタビュー、波乱の人生をつづった自伝「嵐を呼ぶ女」が話題に

 英国在住の映画プロデューサー、吉崎道代さん(80)が波乱の人生をつづった「嵐を呼ぶ女」(キネマ旬報社刊)が話題になっている。吉崎さんはイタリアで映画を学び、「ニュー・シネマ・パラダイス」などを買い付け、その後、プロデューサーとして独立。1992年の米アカデミー賞では「ハワード・エンド」「クライング・ゲーム」が計15部門にノミネートされ、4賞を受賞する偉業を成し遂げた。その人生とは?(取材・文=平辻哲也)

 レオナルド・ディカプリオ、クリント・イーストウッド、ロバート・デ・ニーロ、大島渚、カズオ・イシグロ、アンソニー・ホプキンスら世界のセレブとの交友を持つ名プロデューサーの自伝は題名通りの衝撃作だ。中には、1978年にアラン・ドロンとお熱い一夜を過ごした告白まである。

 最初に聞くと、「あれは余興で書いたんですよ。それより、その前の日にうちの子供(プロデューサーの吉崎アドさん、1979年生まれ、父はイタリア人)がお腹に入っていた(妊娠した)ってのが衝撃でしょ。ホルモンが動いていた時期なんですよ(笑)。この本は、映画バカでドリーマーだった私の人生を孫に読み聞かせたいと思って書きました」と話す。

 吉崎さんは1942年、大分生まれの80歳。国東半島にある故郷は映画館もない田舎町だったが、マーロン・ブランドに恋焦がれ、高校卒業後、映画界を目指しイタリアに渡った。「要するに全部大学を落ちたので、一旗揚げるには海外しかないと思ったんです。親には『結婚もしないから、嫁入り資金もいらない、お金は利子をつけて返すから、行かせてください』と頼んだんです。海外が怖いとも思わなかったし、ガッツはすごかったですね」と振り返る。

 紆余曲折を経て、1975年、日本ヘラルド映画に入社。ディストリビューターとして欧州映画の配給権の買い付けに携わる。「ニュー・シネマ・パラダイス」(1988年、ジュゼッペ・トルナトーレ監督)の日本配給権取得では、日本でベストディストリビューター賞を受賞。大島渚監督の「戦場のメリークリスマス」(1983年)の全契約を取りまとめ、1992年、映画製作会社「NDFジャパン」設立し、プロデューサーとして本格始動した。

 1992年の米アカデミー賞では、2作が計15部門にノミネートされる快挙を成し遂げた。6部門候補の「クライング・ゲーム」(ニール・ジョーダン監督)は脚本賞、9部門の「ハワーズ・エンド」(ジェームズ・アイヴォリー監督)は主演女優賞(エマ・トンプソン)、脚色賞、美術賞を受賞した。

「最高の瞬間でした。メジャーを相手に、蜂の一刺しのような気分でしたね。お金も120万ドル入りましたけど、それ以上にすごい高揚感がありました。特に言葉のハンデがあったのに、勝ち抜いたのは私の誇りになっています」。

ハリウッドの昨今の状況は「二極化している」と分析する【写真:(C)谷岡康則】
ハリウッドの昨今の状況は「二極化している」と分析する【写真:(C)谷岡康則】

失敗して何度も銀行にお金借りた「その度に家を抵当に入れたり、出したり」

 吉崎さんは、2歳の時から息子を連れて、世界を駆け巡るパワフルウーマン。それでも、女性であることはかなりのハンデだったという。「プロデューサーには出資者と一緒に夕食を取ることが大事なんです。腹を割って親しくなりながら、ネットワークを広げていくわけです。私は一人で息子も育てていたので、そういうことはなかなかできなかった。その点では、女性であることは弱みではあったと思います」。

 一方、プロデューサーは本来、女性向きの仕事だと考えている。「企画を開発して、資金を集めて、映画の枠を作るのが主な仕事。開発期間は1年か1年半くらいですが、10か月かけて子供を生むことと似ていると思うんです。失敗もしましたし、銀行には何度もお金を借りました。その度に家を抵当に入れたり、出したり……。銀行の人に『何度もモノを入れたり出したりして、なんだかセックスみたい』と言ったら、笑われたこともありました」。

 幅広い人脈には、女優などにセクハラ、性的暴力を繰り返し、ハリウッドの「#MeToo運動」によって失脚した独立系映画会社「ミラマックス」の創業者、大物プロデューサーのハーベイ・ワインスタインもいた。吉崎さんの代表作「クライング・ゲーム」もミラマックス作品だ。「彼は安くても作品は買ってくれ、その見栄えをよくして、オスカーのノミネーションに入れる人。一番の悔恨は、あんなに近くにいたのに影の部分を全然知らなかったことです。問いただしたいのは、(親しい関係にあった)ロバート・デ・ニーロは本当に知らなかったどうか、なんです」。

 オスカーをめぐる昨今の状況はワインスタインの退場、配信会社の台頭で大きく様変わりした。「ハリウッドは二極化しています。メジャー映画がある一方、不満を抱えたハリウッド俳優がNetflixやアマゾンと組んだり、女性監督(『ノマドランド』のクロエ・ジャオ、『パワー・オブ・ザ・ドッグ』のジェーン・カンピオン)もどんどん出てくるようになりました。今は良いシナリオ、良い監督がそろえば、投資してもらえるチャンスも広がっています」。

 傘寿を迎えた今もオスカーを狙う企画を動かしている。波乱の人生を送った元バイクレーサーの英国女性がブラジル国営の石油会社が犯した環境破壊に立ち向かう「リエンチャントメント 愛と魅惑」だ。「ジュリア・ロバーツ主演の『エリン・ブロコビッチ』みたいな感じですが、ラブストーリーの要素もあって、すごく面白い。本当に嵐のような人生なんです。彼女に比べたら、私の人生なんて、“春雨”のようなものだって、言っているんですよ」と笑った。

□吉崎道代(よしざき・みちよ)1942年、大分県出身。高校卒業後、イタリア・ローマに留学し映画学校で学ぶ。「裸のランチ」(91年、デヴィッド・クローネンバーグ監督、Genie 最優秀映画賞他)、「ハワーズ・エンド」(92年、ジェームズ・アイヴォリー監督、アカデミー賞9部にノミネート、主演女優・脚色・美術賞受賞)、「クライング・ゲーム」(92年、ニール・ジョーダン監督、アカデミー賞6部門ノミネート、脚本賞受賞)、「スモーク」(95年、ウェイン・ワン監督、ベルリン国際映画祭銀熊賞受賞)などがある。95年、NDFインターナショナルを英国で設立。主な作品は「カーマ・スートラ/愛の教科書」「バスキア」(96年)、「チャイニーズ・ボックス」(97年、ウェイン・ワン監督)「オスカー・ワイルド」(97年、ブライアン・ギルバート監督)、「タイタス」(99年、ジュリー・テイモア監督)など。1994~2000年の間、数回にわたってエンターテインメント/映画界における「世界重要人物トップ100」に選ばれる。

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