勝った猪木を悔しがらせた 武藤敬司の類まれな格闘センスと、度重なるケガとの戦い

この男だけは引退しないと思っていた。生涯現役を貫き通すはず。「大切なお知らせがあります」と予告していたのに「やめるはずはない」と決めつけていた。

苦渋の選択を淡々と明かす武藤敬司【写真:CyberFight提供】
苦渋の選択を淡々と明かす武藤敬司【写真:CyberFight提供】

まさかの引退表明だった

 この男だけは引退しないと思っていた。生涯現役を貫き通すはず。「大切なお知らせがあります」と予告していたのに「やめるはずはない」と決めつけていた。

 それが6月12日、さいたまスーパーアリーナのリングにあがった武藤の口から「かつてプロレスとはゴールのないマラソンと言った自分ですが、ゴールすることに決めました。来年の春までには引退します」と聞かされた。

 何度ヒザを手術しても、戻ってきた。2018年には両ヒザを人工関節にしている。まさにサイボーグとなって、ファイトを続けてきた。

 さすがに無理がたたったのか「股関節がヒザと同様、奇形してきた。このまま続けても、人口股関節とした時点でプロレスはできない」と告白。何度もドクターストップを振り切ってきたが、今回ばかりはどうにもならない。とうとう決断を下したのだ。

 1984年に新日本プロレス入りした武藤。その格闘センスと恵まれた体格で入門時から、期待を集めていた。厳しいトレーニングにそれこそ「辞めます」と申し入れても「もう少し頑張れ」と優しく諭されていた。

 実際にスピード出世を遂げる。海外修行にいち早く送り出され、海外マットでも実績を上げ、凱旋帰国後も多少の回り道はあっても、順調にスター街道を走りだした。

 柔道仕込みのグランドテクニックに加え、ヘビー級の体でジュニア戦士に勝るとも劣らない動きを披露。華々しい空中殺法もお手のものだった。

 ただし、その代償も大きかった。実は若いころからヒザ痛に悩まされていた。まだ20代の武藤が、誰もいない体育館の通路に座り込んでいた。「試合中はなんでもないんだけど、試合後に痛むんだ。イテテ」と端正な顔をゆがめて声をあげた。

 得意とするポスト最上段から鮮やかに舞うムーンサルトプレスは、ヒザから着地することが多い。サポーターにテーピングが欠かせなくなっていたが、何事もないかのように、リング上では華麗なファイトで日本プロレス界をリードし続けた。新日本プロレスの三銃士、全日本プロレスの四天王と同時代のヒーローとなったが、国内はもちろん海外での活躍も、武藤が一歩、抜け出ていたのは間違いないところ。

リングの感触を楽しむ武藤敬司【写真:CyberFight提供】
リングの感触を楽しむ武藤敬司【写真:CyberFight提供】

グレート・ムタも「魔界の門は、あと1回か2回…」

 プロ意識も格別だった。周囲からどう見られているのか。常に意識していた。太陽であり月でありブラックホールでもあった。自ら太陽の様に強烈に光り輝き、月のごとく相手の光も受け止めて輝き返し、周囲のすべてを飲みこんでしまう様子はブラックホールである。

 1995年10・9東京ドーム大会で、新日本プロレスの大将としてUWFインターナショナルとの全面対抗戦に登場。敵軍の代表・高田延彦と対戦し、空前の人気を集めた。チケットは飛ぶようにさばけ、分配分を売りつくしたUインターは記者に「何とかなりませんか」と泣きついてきた。「田舎の親、親類や友人に頼まれて」と、新日本プロレスから入手したことを思い出す。

 テレビ放送席に並んだアントニオ猪木が、人で埋まった東京ドームを見上げながら、いささか複雑な表情を浮かべていた。まるで「俺抜きでも、こんなに入るのか」とでも言いたげだった。

 武藤は裏の顔、グレート・ムタとして猪木を翻弄したこともある。1994年5・1福岡ドーム大会であの猪木を掌に乗せた武藤である。おそらく猪木が相手の術中にはまったのはこの時ぐらいだろう。勝ったのに怒りのコメントをする猪木も珍しかった。

 ムタに関しても、「魔界の門は、あと1回か2回、開いたら閉じて出てこられなくなる気がする」と武藤は言う。どうやら一緒に引退することにりそうだ。

 いずれにせよ、苦渋の選択だったようで、引退ロードの行程はこれからの話。「まだ何も決まっていない」と明かす。文字通りの「令和の御大」になるまで、残り数試合。稀代のヒーロー・武藤敬司の勇姿を目に刻み込むしかない。

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