チューリップのアルバムデビュー50周年に改めて考える魅力 脈々と受け継がれる遺伝子
チューリップが今年でアルバムデビュー50周年になる。1972年、シングル&アルバム「魔法の黄色い靴」でデビューした福岡県出身の5人の若者は、73年「心の旅」の大ヒットにより、一躍スターの仲間入り。当時流行していた「四畳半フォーク」(生活感あふれる私小説的フォークを当時はそう呼んだ)とは違う、ビートルズの影響を多大に受けた「サウンド志向」のバンドとして、メンバーの親しみやすさもあり、「ニューミュージック」の中心的バンドとなったのはご存知の通りだ。
23歳の財津和夫は当時何を思っていたのか
チューリップが今年でアルバムデビュー50周年になる。1972年、シングル&アルバム「魔法の黄色い靴」でデビューした福岡県出身の5人の若者は、73年「心の旅」の大ヒットにより、一躍スターの仲間入り。当時流行していた「四畳半フォーク」(生活感あふれる私小説的フォークを当時はそう呼んだ)とは違う、ビートルズの影響を多大に受けた「サウンド志向」のバンドとして、メンバーの親しみやすさもあり、「ニューミュージック」の中心的バンドとなったのはご存知の通りだ。(文=“you-me”成瀬英樹)
その「魔法の黄色い靴」の50周年記念エディションが、アナログレコード3枚(LP、EP×2)、CD3枚と、当時のレコーディング風景などを収めた貴重な写真集などをセットにした限定盤として発売された。チューリップを応援してきたファンの皆さんへの、最高のプレゼントとなるだろう。
68年生まれの筆者が、92年にFOUR TRIPSというバンドを神戸で結成した際、音楽性のキーワードの一つとして考えていたのが「平成のチューリップ」を作る、ということだ。ビートルズに影響を受けたキャッチーで親しみやすいメロディー、青春の光と影を若者の立場から描写する歌詞の世界、コーラスを多用する気の利いたバンドアンサンブル。どれもが「スタイル」としてすでに完成し、再現性のあるものだった。
同じく90年代を代表するバンドである「スピッツ・ミスチル・L⇔R」も、当人たちの意識があったかなかったかはともかく、チューリップが作り上げたスタイルを踏襲したものと筆者は捉えていた。その後も「キンモクセイ(2001年デビュー)」などにその遺伝子は受け継がれている。
例えばデビュー曲である「魔法の黄色い靴」における作曲者・財津和夫による「短三度の転調を繰り返す」作曲法は、令和の現在でも有効である。筆者もこの転調には大変お世話になったものだ。
キーD(ニ長調)からB(ロ長調)の間を行ったり来たりしながらも、違和感をまるで感じさせない流れの美しいメロディー。「ぼーーくのちっちゃなちっちゃないえまでー」の濁音と促音・拗音で「日本語という平板な言語」をポップスに乗せる手法など、再現性のある、いやもっと分かりやすく言えば大変にまねのしやすい、ポップスのお手本のような楽曲なのだ。
(蛇足だが、筆者のバンドFOUR TRIPSのデビュー曲「WONDER(1997年)」のパンチライン「まちがった恋だった」も促音と濁音を意識的に使った。もちろん財津和夫の影響を受けたものだ)
後年、80年代初期の「チェリーブラッサム」「白いパラソル」などの松田聖子のヒット曲や、沢田知可子「会いたい」(90年)のロングヒットでミリオンセラーを獲得するなど、ソングライターとしても歴史に名を残す財津の才能の萌芽がデビュー作からすでに見てとれる。