闘う区議会議員・西村修、邪道・大仁田厚退治に準備着々 無我軍団“再結集”目論む
やはりプロレスは体ひとつ、魂ひとつでやるもの。いかなる武器も必要ない。「無我の伝道師」西村修が邪道・大仁田厚との完全決着を誓った。
毎週金曜日午後8時更新 柴田惣一のプロレスワンダーランド【連載vol.95】
やはりプロレスは体ひとつ、魂ひとつでやるもの。いかなる武器も必要ない。「無我の伝道師」西村修が邪道・大仁田厚との完全決着を誓った。
ファイヤープロレス4・30島根・松江大会で、大仁田と組み邪道のリングに初めて足を踏み入れた西村。賛否両論あったが、人生、何事も経験にまさるものはないという「体験派」とあって邪道・大仁田の隣に立った。
「大仁田さんの生き様を垣間見た。全日本プロレスから始まり、ジャイアント馬場イズムを学び、海外マットでも活躍された。そして電流爆破マッチという新たな戦場を開拓され、一時代を築いた方。同じリングに立って、大いに共感できた。プロフェッショナルとして自分から突っ込んでいく。私との共通点もあった」と邪道に最大限の賛辞を送っていた。
ところが、翌5・1広島大会で、誤爆とはいえ大仁田の毒霧を浴び、電流爆破バットで大仁田の脳天を誤打してしまった。となると、心の底にあった思いが隠せなくなってしまった。
「やっぱり私とは違う。対極に位置している。組むのは無理。闘って、どちらが正しいのか? はっきりと白黒をつけた方がいい」ときっぱり。邪道との2連戦から3週間余り。東京・文京区議会議員としての活動に勤しみ、冷静さを取り戻したものの、怒りの炎は一向に鎮まりそうにない。
西村にとって、プロレスは体と魂をぶつけ合うモノ。どんな武器も戦いの場に持ちんではいけない。
1990年に新日本プロレスに入門し、翌91年にデビュー。海外修行に打ち込み、95年には藤波辰爾の自主興行「無我」の旗揚げ大会に参戦している。
98年には後腹膜腫瘍で長期欠場。2000年に約2年ぶりに復帰しているが、闘病生活中に東洋医学に目覚め、食生活の改善に取り組むようになった。現在の議員活動でも「食の改善」を大きなテーマとしている。
06年1月には新日本を退団し、無我ワールド・プロレスリングの旗揚げに参加。ノア、ハッスルなどにも参戦していたが無我は活動を停止し、07年10月、全日本プロレス入りした。
11年4月、文京区議会選挙で初当選。現在3期目を務めている。プロレスラーとしても全日本始め、WNCなど他団体でも活躍してきた。
西村といえば、「神様」カール・ゴッチの最後の愛弟子であり、17年7月、ゴッチの墓を東京・南千住の回向院に建立するのに尽力した。また「グレート・テキサン」ドリー・ファンク・ジュニアを師と仰ぎ、来日するたびに行動を共にしている。