新日へのUターンに藤原組旗揚げから解散まで “人に期待しなくなった”藤原組長の生き方

 レジェンドプロレスラーの“今”と“あの時”に迫るインタビュー連載「レジェンド直撃」シリーズ第1弾のゲストは藤原喜明組長。第1回では、アントニオ猪木の近衛兵を務めながらも、UWFに移籍した真相を明かしたが、連載2回目ではUWFから新日本プロレスにUターンした理由と再度飛び出した真相、さらには藤原組解散の現実……。組長が波乱のレスラー人生を振り返った。そして趣味に目を向けるようになった瞬間を明かしてくれた。

様々なリングで披露してきた藤原喜明組長のわき固め【写真:柴田惣一】
様々なリングで披露してきた藤原喜明組長のわき固め【写真:柴田惣一】

レジェンド戦士を直撃、藤原喜明組長【連載vol.2】

 レジェンドプロレスラーの“今”と“あの時”に迫るインタビュー連載「レジェンド直撃」シリーズ第1弾のゲストは藤原喜明組長。第1回では、アントニオ猪木の近衛兵を務めながらも、UWFに移籍した真相を明かしたが、連載2回目ではUWFから新日本プロレスにUターンした理由と再度飛び出した真相、さらには藤原組解散の現実……。組長が波乱のレスラー人生を振り返った。そして趣味に目を向けるようになった瞬間を明かしてくれた。(取材・構成=柴田惣一)

 ◇ ◇ ◇

――UWFから、新日本にプロレスにUターンすることになりました。どんな理由だったのでしょう?

「俺はUWFが解散するときに辞めるつもりだったんだが、どこかに連れて行かれたんだ。プロモーター関係の人が待っていた。何やかんやあって、猪木さんと会うことになった。最初は、一度、新日本プロレスから出たんだから『またよろしく』という気持ちはなかった。でも、猪木さんが『藤原よ、お前の気持ちもわかるけど』と言ってくれたんだ。この一言で大宮でのことも、車の中でのことも、スッと消えていった。『俺は新日本に必要ないというのは、俺の一方的な思い込みだった』と。もう一回、猪木さんのもとで、と思えたんだ。成り行きで、また猪木さんと一緒になったよ」

――その後、紆余曲折を経て、1991年に藤原組を旗揚げすることになりました。

「メガネスーパーのことなんて、いつもの様に俺はよくわからねえんだ。船木(誠勝)と鈴木(みのる)の二人を引っ張れば、って言われていたけど、俺は人に頼みごとをするのは嫌いだから、2、3日、放っておいた。そうしたら、朝方、俺んちの前に車が一台、止まっていた。船木と鈴木だった。『何とかしてください』というんだ」

――向こうからやってきた 。

「そこで思い出したんだ。メガネスーパーの田中(八郎)社長が何か、言っていたなと。田中社長に電話したら『やりましょう。まずは事務所、道場を探してください。お金は私が出します』と。『そうか』となったら、話は早かった。俺が家を買った不動産屋に行って相談したら、ちょうどいい倉庫があると紹介された。新築で広さも天井の高さもあった。『よし』だよ。まずは道場を確保した」

――事務所は?

「道場の中にプレハブを建てて、あっという間だよ。記者会見もしたな。今、思い出しても早かったよ。船木と鈴木が家に来てから1週間後には記者会見を開いたんだ。『下準備していたんじゃないか』というヤツもいたけど、本当に何もなかった。問題はお金だからな。出してくれる人がいたんだから、話が進んだ。

――新生UWFからは前田日明のリングス、高田延彦のUWFインターナショナルも立ち上がりましたが、彼らから話はなかったんですか?

「な~んも、ないよ。みんなが、周りがごちょごちょ、やっていたのは知っていたけど、もう俺は30歳過ぎていたし、俺はコックでも何でもできるし、その内、何とかなるだろうって、のんびり構えていたんだ。だって俺、嫌いだもの。集まってごちょごちょやるの。ああでもない、こうでもないって、元々の仲間を『アイツは敵だ』って、好きじゃねえ。だから、そういう場に俺は行かなかった」

――藤原組もパンクラスが分派するなどして1995年に解散します。

「俺も俺なりに精いっぱいやったよ。自分の給料だって取らなかったり、若いヤツには小遣いやったりしたんだ。『飯、食ってこい』ってな。でもだんだん、当たり前になってしまうんだな、これが。その内、不平不満が出て来る。俺としてはやれるだけのことはやっていたのにな。俺はふと思ったんだ。『人間に投資しても、こりゃダメだわ。これからは自分に投資しよう』と。そこで窯を買ったり、ろくろを買ったりしてね。焼き物だとかさ」

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