猪木と「昭和の巌流島の決闘」ストロング小林さんの意外な素顔 優しさに包まれた人だった
ストロング小林さんの訃報に日本中が悲しみに包まれている。昨年末に亡くなり、9日に告別式が営まれた。
聞こえてくるのは心休まる逸話ばかり
ストロング小林さんの訃報に日本中が悲しみに包まれている。昨年末に亡くなり、9日に告別式が営まれた。
国際プロレスのエースとして活躍し、1974年のアントニオ猪木との「昭和の巌流島対決」で注目を集めた。プロレスラー引退後はタレントとして活動し、ストロング金剛の名前でも知られている。
いかつい体で暴れまわるリング上の勇姿からは想像もつかない優しい人だった。聞こえてくるのは心休まる逸話ばかり。
昭和の時代には恒例だったリング上での花束贈呈。試合直前なので選手はピリピリ緊張している。無言で受け取ることが大半だったが、アントニオ猪木、坂口征二、そして小林さんの3人は「ありがとう」と丁寧に花束嬢にお礼していた。猪木は「ありがとー! フフッ」と元気良く、坂口は「どうもありが、と」とくぐもった声で、小林さんは「きれいなお花、ありがとう」とソフトに……がいつもの言葉だった。
誰に対しても偉ぶることなく接し、ちびっ子ファンには特に繊細だった。女の子のファンと握手するときには「おじさん、力が強いから、そっと握手するけど痛かったら言ってね」と断っていた。それでも遠慮がちに、握手というよりそっと手を添える程度だった。「大きくてゴツゴツした分厚い手だけど、とても温かったのを今でも覚えています」と懐かしむファンがいる。
また、いつ何時でも制限速度を守る安全運転だった。「交通違反ゼロだよ」と胸を張っていた。ただ「時々トラックとかに、早く行けというのかな、クラクションを鳴らされる」と表情をくもらせたことがある。「車は凶器なのだから、危ないよね。だから特に、交通ルールは守らないといけないのにね」とキッパリ。
意外なことに、写真を撮られるのが好きだった。リングサイドでカメラマンがシャッターを切るまでその方角を向き、ヘッドロックをかけ続けた。シャッターを切れば、次の技に移行すると分かり、ベテランカメラマンも何枚もパシャパシャ撮ったという。昔はフィルムなので入れ替えも大変で、そのタイミングも難しい。枚数を数えながら撮影していたが、小林さんの試合で「フィルムを大量消費した」と苦笑いしていた。
74年の猪木との試合をベストバウトに挙げるファンも多い。力道山VS木村政彦以来の大物日本人対決は、東京・蔵前国技館会場がまさに熱狂の渦。入りきれないファンが詰めかけ、今では禁止の太鼓やラッパの鳴り物を使った小林の応援団。迎え撃つ猪木応援団の目は血走り、一触即発。リング上もだが、客席も殺気立っていた。勢い余って、投げた猪木の両足が浮いてしまった伝説の「首だけジャーマン」は今見ても鳥肌が立つ。猪木が「10年持つ選手生活も1年で終わってしまうかも知れない」と漏らすほどの死闘だった
。
覆面太郎という日本人初のマスクマンだった時代もある。それまではデストロイヤーなど悪漢外国人レスラーの代名詞だった「覆面レスラー」のイメージを一変させた。それがタイガーマスクや獣神サンダーライガーなど、日本人覆面レスラーへの系譜へと続いた。
新日本に入団してからは、坂口征二との北米タッグ王座の防衛戦を重ね「怒涛(どとう)の怪力」の名にふさわしい豪快なパワーファイターとして活躍した。
DDTのエース・HARASHIMAは「同じ中学を卒業した大先輩で、お会いしたことはありませんでしたが、ご活躍を拝見して、とても誇らしく思っていました。コロナもあって、お見舞いがかなわず残念です。小林さんは地元の英雄でした。心よりご冥福をお祈りいたします」とお悔やみを述べた。
小林さん、これからもその優しい笑顔でプロレス界を見守ってください。ご冥福をお祈りします。(文中一部敬称略)