2年連続“紅白落選”も「ピンチはチャンス」 AKB48、大ブレーク前夜と重なる“逆境”

大みそかに放送される「第72回NHK紅白歌合戦」の出場歌手が発表され、AKB48は昨年に続き落選した。これを受けて「AKB48はオワコンか」などの議論がネット上で盛んに行われた。2年連続紅白落選という事実だけを見ると、確かにAKB48はピークを過ぎ、「凪」(なぎ)の状態が続いているように見える。しかしながらこの「凪」は、次の大航海への布石になり得ると筆者は考える。そう、AKB48は常に見事にしたたかに、ピンチをチャンスに変えてきたのだ。その歴史を皆さんと振り返りながら、現在と未来のAKB48を一緒に考えてみたいと思う。【前編】

AKB48【写真:Getty Images】
AKB48【写真:Getty Images】

最大のピンチはレコード会社の契約が終了した08年

 大みそかに放送される「第72回NHK紅白歌合戦」の出場歌手が発表され、AKB48は昨年に続き落選した。これを受けて「AKB48はオワコンか」などの議論がネット上で盛んに行われた。2年連続紅白落選という事実だけを見ると、確かにAKB48はピークを過ぎ、「凪」(なぎ)の状態が続いているように見える。しかしながらこの「凪」は、次の大航海への布石になり得ると筆者は考える。そう、AKB48は常に見事にしたたかに、ピンチをチャンスに変えてきたのだ。その歴史を皆さんと振り返りながら、現在と未来のAKB48を一緒に考えてみたいと思う。【前編】(文=“you-me”成瀬英樹)

 AKB48は2005年12月8日に秋葉原の専用劇場「AKB48劇場」で初公演。初日の客数が1桁だったのは有名な話だ。翌06年「会いたかった」でメジャーデビューしたが、チャートアクションがオリコン最高位12位であったように、いきなり人気が爆発したわけではない。

 筆者は07年の4thシングル「BINGO!」でAKB48の作曲を初担当したことをきっかけに、彼女たちを我がことのように応援し始める人生が始まった。「BINGO!」は筆者にとって初めての「作曲家としてのトップ10ヒット」(最高位6位)となったのだが、トップ10ヒットを出してはいても、当時の彼女たちの世間的な認知度はまだまだ低いものだった。

 しかし、AKB48には専用劇場を持っている強みがあった。劇場公演でそのスキルを毎夜磨いていくことができた。筆者も当時、何度か劇場公演やコンサートに足を運び、その「修行時代」を目撃してきた。確かに始めは歌もダンスも立ち居振る舞いもおぼつかないものだったが、少しずつ成長していく彼女たちの姿から目が離せなくなっていった。

 とはいえ、当時AKB48が国民的アイドルになると予言した者は、ほとんどいなかったのではないか。公式ブログのタイトルが「TOKYO DOMEまでの軌跡」であったことも、小粋で自虐的なユーモアにしか思えなかったのだ。筆者のような「楽曲作曲者」という、彼女たちに比較的近い立場のような者から見ても、大ブレークを遂げるのはたやすいことではないと感じていた。

 というのも、深夜の冠番組で見せる最初期のメンバーたちの、タレントとしての心もとなさや線の細さは、ちょっとやそっとの努力では克服し難いものがあるように思えたからだ。前田敦子や大島優子といった、のちに「神セブン」と称され、21年現在も大活躍中のメンバーでさえ、当時は自分たちがどう動くのが正解なのかをしきりに迷っているように見えた。

 そんな時期にAKB48はいきなり最大のピンチを迎えた。08年2月のシングル「桜の花びらたち2008」を最後に前所属レコード会社との契約が終了したのだ。キングレコードへ移籍が決まるまでの長い長い8か月間、彼女たちは劇場公演で懸命に歌い踊った。深夜のバラエティー番組での立ち居振る舞いにも少ないチャンスを生かそうとするハングリーさが出てきた。いい意味でメンバー同士がしのぎを削るようになってきたのだ。

 たとえ先行きの見通しが悪くても、彼女たちは決してあきらめなかった。そんなシングルリリースがなかった心の折れそうなメンバーを支え続けたのは、劇場に詰めかけ声援を送り続けるファンであった。

 もう彼女たちのパフォーマンスに、最初期にあった戸惑いからくる稚拙さはなかった。背水の陣を敷いた少女達のプロフェッショナルな覚悟が大きな力となって見ているこちら側に熱く伝わってくるようになっていた。劇場という現場で彼女たちは圧倒的に努力し、見違えるほどに成長していった。

次のページへ (2/2) 松井珠理奈と指原莉乃という起爆剤の誕生
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