2代目バチェラーの今 サイバーエージェントから独立、福岡移住で貫くチャレンジ精神

“2代目バチェラー”として名をはせた実業家の小柳津林太郎(おやいづ・りんたろう)が、10月に40歳を迎え、新たな挑戦を始めた。東京から福岡市に移住し、健康と酒を組み合わせた産官学連携のプロジェクトに取り組んでいる。IT大手のサイバーエージェントで頭角を現し、20代で子会社運営などを経験。35歳のときに、婚活サバイバル番組「バチェラー・ジャパン」シーズン2に参加し、一躍有名に。2年前に独立してからは多角的なビジネスを展開している。チャレンジ精神と飽くなき“野望”に迫った。

“2代目バチェラー”として名をはせ、現在は福岡市在住の小柳津林太郎
“2代目バチェラー”として名をはせ、現在は福岡市在住の小柳津林太郎

小柳津林太郎インタビュー 35歳で「バチェラー・ジャパン」シーズン2に参加

“2代目バチェラー”として名をはせた実業家の小柳津林太郎(おやいづ・りんたろう)が、10月に40歳を迎え、新たな挑戦を始めた。東京から福岡市に移住し、健康と酒を組み合わせた産官学連携のプロジェクトに取り組んでいる。IT大手のサイバーエージェントで頭角を現し、20代で子会社運営などを経験。35歳のときに、婚活サバイバル番組「バチェラー・ジャパン」シーズン2に参加し、一躍有名に。2年前に独立してからは多角的なビジネスを展開している。チャレンジ精神と飽くなき“野望”に迫った。(取材・文=吉原知也)

「Nothing to lose、失うものは何もない。この言葉を大事にしています。チャレンジ病にかかっているようなもんですね」

 全力疾走の生き方だ。2006年に24歳で新卒入社のサイバーエージェントでは、広告代理店部門からスタート。入社3年目で子会社「CyberX」を設立、モバイルサイト制作やソーシャルゲーム開発、12年には米国子会社の立ち上げにも関わった。AbemaTV(現・ABEMA)に異動後はアナウンス室部長などを務め、ビジネスパーソンとしての実績を重ねた。

 米国の事業では、150人近くのメンバーを抱える子会社社長として奮闘。ここでの失敗の経験がいまにつながっている。ガラケーからの移行が始まったスマートフォンのスポーツゲーム開発に取り組んだが、先取りしたトライは当時受け入れられず、億単位の規模の損失を出した。大損害にも関わらず、サイバーエージェント創業者の藤田晋社長からかけられたのは、意外な言葉だった。

「負けたと、負けているは違う(頑張れ)」

 再チャレンジで次の勝利をつかみにいくことが大事――。恩師とも言える藤田氏からチャレンジ精神を教わった。いまも息づいており、「ベストを尽くしたうえでの結果ならば、失敗でも悔いはない」と力強く語る。

 人生の糧となったのが、「バチェラー・ジャパン」への出演だ。成功を収めた1人の独身男性(バチェラー)を巡って複数の女性が競い合うリアリティーショー。20人の女性と“恋の駆け引き”を実際に体験した。もともと大学時代に演劇をやっていたが、キャスティングのお手伝いをしていた友人からオーディションの誘いを受けると、「いきなり大規模なリアリティーショーの主人公!?」と心が動いた。

 事業を任される責任者の立場にあったが、撮影のため3か月間仕事を休む必要があった。それまで12年間、身を粉にして働いたので、144か月のうちの3か月という割り切りで参加することを決意した。これを機に人様の目に触れることになり、街で声をかけられるようにもなった。もともと会社の看板を背負っているという感覚はあったが、「番組のブランドを背負うことにもなった。普段の生活から、人様から見られているという意識がよりいっそう高まった」と語る。番組内で結ばれた女性とは、結局は別々の道を歩むことになった。

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