橋田壽賀子さんの執筆へのこだわり 原稿用紙は200字詰め、30年以上愛用したテーブル

「渡る世間は鬼ばかり」や「おしん」など数々の名作を世に送り出した橋田壽賀子さんが4日、急性リンパ腫のため、95歳で亡くなった。偉大な脚本家でありながら、庶民的で温かく、また、大人と子どもが同居したような人でもあった。これまで何度も橋田さんを取材してきた記者が、その人となりを振り返る。

脚本家の橋田壽賀子さん
脚本家の橋田壽賀子さん

最期まで現役で仕事を頑張ってきた理由「船で旅行に行きたいから」

「渡る世間は鬼ばかり」や「おしん」など数々の名作を世に送り出した橋田壽賀子さんが4日、急性リンパ腫のため、95歳で亡くなった。偉大な脚本家でありながら、庶民的で温かく、また、大人と子どもが同居したような人でもあった。これまで何度も橋田さんを取材してきた記者が、その人となりを振り返る。

 もう17年前(2004年)のことだが「渡る世間は鬼ばかり」を執筆してきた現場、つまり静岡県熱海市内の自宅を訪ねたことがある。古い自宅のすぐ目の前には新しい家も建っていたが、亡くなった夫と過ごした思い出の詰まった古い家で暮らしていた。原稿は書斎ではなく、リビングにある古いダイニングテーブルで書いていると紹介してくれた。

 当時、すでに30年以上使っているというテーブルは少し黒ずんでいた。「ここでご飯も食べ、原稿も書いているんです。何でもここで済ませます」と話していた。テーブルの黒ずみは仕事で使う消しゴムのかすが、テーブルの板の節目にたまったためだった。執筆にテーブルを愛用する理由は1989年に亡くなった夫から「脚本家ではなく橋田壽賀子と結婚した」と言われたからだ。橋田さんは「夫の元気だったころは専業主婦のつもりでいました。執筆は夫が会社に行ってからが勝負でした」と話していた。そんな橋田さんだからこそ、家族をテーマにした庶民に寄り添う名作を生むことができたのだと実感した。

 テーブルの上の筆箱は当時、すでに67年使っているものだった。「12歳の時に母がくれた筆箱です。これがあれば、どこでも仕事ができます」と話していた。また、原稿用紙は必ず200字詰めだった。「間違えても400字詰めよりもったいなくないでしょ」と話していた。

 そんなテーブルで、知人から送ってもらった笹団子を食べるよう勧められた。一緒に食べようとすると笹の葉をうまくはがせない橋田さんに新潟出身の記者がコツを教えようとすると、「自分でできるから」と言いたげな嫌がる顔をした。まるで子どものような顔だった。

 また、船旅が大好きで、南極をはじめ海外によく出かけていた。「私が仕事をするのは船で旅行に行きたいから」とよく言っていた。船旅を終え、横浜の港に帰港する際に取材に行ったことがあるが、船上で何度も飛び跳ねながら出迎えの人たちに元気に手を振っていた。はしゃいでいる子どもそのものだった。

 明るく、庶民的で、子どものような顔も持つ。橋田さんは誰からも愛される人だった。

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