被災地に届けた62台のピアノ 西村由紀江が忘れられない少女の言葉 「#あれから私は」
ピアニストで作曲家の西村由紀江さんは、東日本大震災で失ってしまったピアノを被災地のご家庭に届ける活動「Smile Piano 500」を続けています。タイトルの“500”とは仲間の調律師さんから教わった震災で失われたピアノの数。被災した少女がテレビカメラに向かって「ピアノが欲しい」と訴えた言葉に心を動かされ、ピアノを届けることが、誰かの大切な日常を取り戻すきっかけになると信じ、この10年で62台のピアノを届けました。東日本大震災から10年。彼女の足跡を振り返ります。
東日本大震災を機に10年かけて被災地に届ける活動に従事
ピアニストで作曲家の西村由紀江さんは、東日本大震災で失ってしまったピアノを被災地のご家庭に届ける活動「Smile Piano 500」を続けています。タイトルの“500”とは仲間の調律師さんから教わった震災で失われたピアノの数。被災した少女がテレビカメラに向かって「ピアノが欲しい」と訴えた言葉に心を動かされ、ピアノを届けることが、誰かの大切な日常を取り戻すきっかけになると信じ、この10年で62台のピアノを届けました。東日本大震災から10年。彼女の足跡を振り返ります。(取材・文=福嶋剛)
――東日本大震災から10年がたちました。
「そうですね。当時、自宅でピアノに向かって曲作りをしていたら、ガタっと大きく揺れて、グランドピアノのインシュレーター(足置き)が外れたんです。それで必死にピアノを抑えていたことを今でも覚えています」
――西村さんは阪神・淡路大震災(1995年)で被害の大きかった大阪のご出身です。
「当時は既に東京に住んでいましたが、私の地元、豊中市は、大阪の中でも特に被害の大きかった街で、親しい人たちも大勢被害に遭いました。東日本大震災もそうでしたが、震災直後に私にできることなんて全然なくて。音楽を届けるのは、皆さんの生活が落ち着いてから最後の最後だと思っていましたから。とにかく1日も早く日常を取り戻せますようにと、ただただ心を寄せて祈る毎日でした」
――そんな西村さんの心を大きく動かす出来事があったんですね。
「確かまだ3月だったと思います。テレビで被災した女の子がインタビューに答えていて、『取り戻したいものは何?』と聞かれて、その子は『ピアノ』と答えたんです。住むところもない、ご家族も失ってしまった方がたくさんいる中で、この女の子は、なぜ今ピアノを取り戻したいんだろう? って。その言葉が忘れられなくて『この子のためにピアノを届けたい』って思いました」
――被災地にピアノを届ける活動「Smile Piano 500」は、そこから始まったわけですね。
「はい。はじめはどうやってピアノを届けたらいいんだろうって考えていたら、以前から弾かなくなったピアノがずっと家に置いてあるとよく耳にしていたので、そういったピアノを活用すればみんなに届けられると思い付きました。そして震災直後のチャリティーコンサートでいつもお世話になっている調律師さんから、被災地でたくさんのピアノが流されて心が痛んだという話を聞いて、『何か一緒に出来ることはありませんか?』と尋ねたところ、調律師さんが『じゃあ僕はピアノのメンテナンスをしますから、西村さんはそのピアノの“弾き初め”をして笑顔を届けるというのはどうでしょう?』と提案してくださって。ほかにもピアノを運んでくださるドライバーさんや、ホームページ立ち上げでサポートしてくれた方、ピアノをなくされた生徒さんたちの情報を教えてくれた東北のピアノ教室の先生方など、次々といろんな仲間が協力してくれました」
――そこで被災地を視察されたんですね。
「4月に仙台のイベンターさんに話を聞きに行こうと、車で宮城県七ヶ浜町まで視察に向かいました。そこで目に入ってきたのは、あったはずの建物や信号が無くなっていて、信じられないような光景ばかりでした。現地でお話を聞くと、最初にテレビで見た女の子と同じように流されたり、壊れたりして失ってしまったピアノをもう1度弾きたいというたくさんの声でした。“こんなに大変な状況なのに今ピアノが弾きたいのはなぜ?”“私がやろうとしている活動は、楽器を届ける以上の衣食住、または家族と同じくらい必要なものを届けることなんだ”と改めて確かめることができて。早速戻ってホームページを立ち上げ“使っていないピアノや譲ってくださるようなピアノがあったらお知らせください”と呼びかけました」
――反応はいかがでしたか?
「全国から家のピアノを使ってくださいと150人の方から声がかかりました。ところが、現地で欲しいというお話はありましたが、HPからピアノが欲しいと言う声はしばらく届かなかったんです。当然、大変な被害に遭われたばかりでそんな余裕はありませんよね。だからそこでエントリーいただいた150人の提供者一人ひとりにいつまで待っていただけるか連絡を取り、ようやく最初に届けられたのは9月になってからでした」