【プロレスこの一年 ♯25】初の外国人エースとなったビル・ロビンソン、卍固めを初公開した猪木 68年のプロレス
今から52年前の1968年(昭和43年)12月19日は、日本のプロレス界で初めてベビーフェースの外国人エースレスラーが誕生した日と言っていいだろう。国際プロレスに参戦の英国出身ビル・ロビンソンが、「IWAワールド・シリーズ」を優勝。ロビンソンは初代IWA世界ヘビー級王者に認定され、以後、同タイトルは国際プロのフラッグシップ王座として団体トップの象徴となっていく。その初代王者が日本人ではない外国人レスラーで、ロビンソンは翌年から本格的に団体のエース格として活躍。後世にも残る大きな影響を与えるようになり、日本マット界に多大なる貢献をしていくことになるのである。
ゴッチが「ナンバーワン」と認めたロビンソンの実力
今から52年前の1968年(昭和43年)12月19日は、日本のプロレス界で初めてベビーフェースの外国人エースレスラーが誕生した日と言っていいだろう。国際プロレスに参戦の英国出身ビル・ロビンソンが、「IWAワールド・シリーズ」を優勝。ロビンソンは初代IWA世界ヘビー級王者に認定され、以後、同タイトルは国際プロのフラッグシップ王座として団体トップの象徴となっていく。その初代王者が日本人ではない外国人レスラーで、ロビンソンは翌年から本格的に団体のエース格として活躍。後世にも残る大きな影響を与えるようになり、日本マット界に多大なる貢献をしていくことになるのである。
ロビンソンは38年9月18日、マンチェスター生まれ。10歳の頃、英国に来たばかりのカール・イスタス(ゴッチ)と出会い、15歳でビリー・ライレー・ジムに入門。アマレスで数多くのタイトルを獲得し、20歳のときに師匠ビリー・ライレーの勧めでプロレスの道に進んだ。64年には自身のジムをマンチェスターに開設し、後進の指導にあたりながら、65年に師匠の1人であるビリー・ジョイスを破り、大英帝国ヘビー級、欧州ヘビー級王座を同時戴冠。68年4月の国際「日英チャンピオンシリーズ」に初来日。国際プロレスの欧州路線を確実にしたのが、ゴッチが「ナンバーワン」と認めたロビンソンの実力だったのだ。
では、日本マット界にとって68年とはいったいどんな1年だったのか。この年、日本のプロレスは「隅田川決戦」と呼ばれた興行戦争で1月3日に幕を開けた。日本プロレスが蔵前国技館でジャイアント馬場VSクラッシャー・リソワスキーのインターナショナル王座戦をメインにそえれば、日大講堂にて開催の国際はTBSの生中継でルー・テーズVSグレート草津のTWWA世界ヘビー級王座戦をぶつけてきた。両団体とも時間差付きのゴールデンタイムでテレビ中継されたのだった。この時代は、日本プロレスと国際プロレスの2団体による、テレビ放送を巻き込んでの真っ向勝負だったのである。
日プロは1月8日、天候不良による移動トラブルでアントニオ猪木が広島大会に間に合わず。予定されていたインタータッグ王座戦は猪木不在で空位となり、ジャイアント馬場&吉村道明(猪木の代打参戦)VSビル・ミラー&リソワスキー組による王座決定戦が組まれたが、引き分けによりベルトは空位のまま。2・3大田区にて、馬場&猪木組VSミラー&リソワスキー組による王座決定戦があらためて行われ、馬場&猪木のBI砲が王座奪還に成功した。
国際1・24台東区では外国人同士による初めての世界王座戦が実現。隅田川決戦でベルトを守ったテーズがダニー・ホッジに敗れ、TWWA世界王座を明け渡してしまった。その国際では2月19日の浜松でブッカーのグレート東郷が金銭問題を理由に外国人選手の出場をストップ、急きょ日本人選手のみによる興行に切り替えられ、TBSは生中継を録画に変更し急場をしのぐという事件が発生した。東郷はこの前、大木金太郎の日プロからの引き抜き工作を巡りユセフ・トルコから襲撃を受けるという事件も引き起こしていた。