「社員がすぐに辞める」 ラーメン店の過酷労働を変革、赤字でも逆転の一手 勝ち続ける経営者の大胆人生
22歳で起業し、50歳で引退する――。初志貫徹で人生を切り開いてきたのは、茨城・つくば市に本社を構える「有限会社天辺(てっぺん)ダッシュカンパニー」の代表取締役を務める芝山健一さんだ。2026年9月現在は44歳で、自身で決めた引退までの期限はあとわずか。ラーメン店経営とスープなどの製造業の“二刀流”で勝ち続ける経営者の歩みは、文字通りの型破りだった。

世間の“常識”に反発「22歳で起業してみせる」
22歳で起業し、50歳で引退する――。初志貫徹で人生を切り開いてきたのは、茨城・つくば市に本社を構える「有限会社天辺(てっぺん)ダッシュカンパニー」の代表取締役を務める芝山健一さんだ。2026年9月現在は44歳で、自身で決めた引退までの期限はあとわずか。ラーメン店経営とスープなどの製造業の“二刀流”で勝ち続ける経営者の歩みは、文字通りの型破りだった。(取材・文=カネコシュウヘイ)
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同社は「つけめん・らーめん 活龍」など、茨城県内外で6ブランド18店舗のラーメン店を経営し、工場によるスープなどの製造業で全国1630店舗と取引。社名には2つの意味があり「てっぺんを奪取する」、そして、「てっぺんまでダッシュで駆け上がる」という思いが込められている。
幼い頃から勉強は「大嫌いだった」。唯一、得意だったのはスポーツ。高校受験でも願書を出すことすらしなかったが、所属していたサッカー部の顧問から「高校に行っておかないと、将来が不利になる。サッカー推薦で行かせてやるから、とりあえず卒業だけはしておけ」と言われて、仕方なく高校に進学した。
ただ、負けず嫌いではあった。周囲が進路を考え始める高校3年生の時期に、世の中で常識とされる「大学を卒業して就職するのが当然」という価値観への反発から「だったらオレは、大卒にあたる22歳で起業してみせる」と決意。「22歳で起業し、50歳で引退する」と思い立った。
高校卒業後は地元の茨城・桜川市を離れ、都内でのアルバイト生活が始まる。夜の繁華街に身を置き、池袋、新宿・歌舞伎町、六本木の“夜の店”を従業員として渡り歩いた。そこでふと、店舗で目に留まったのが中古車販売で成功を収めていた経営者たちのグループ、そして、人気ラーメン店経営者たちのグループだった。
当時の芝山さんは21歳で、自ら課した起業の期限まであと1年しかない。かわいがってくれた経営者たちに「来年には起業したいんです」と話すと、快くアドバイスをくれた。しかし、中古車販売を始めるには数百万円~数千万円の元手がかかる。かたや、ラーメン店は居抜き物件であればより安く済み、現実的に立ち上げられるかもしれない。当初は「消去法」での決断ではあったが、芝山さんは自らの将来をラーメンに預けた。

止めても聞かない息子の“起業”決断に母「いいよ」
その後、かわいがってくれた都内のラーメン店経営者の1人に「来年起業しなければならないので、半年だけ働かせてください」と一念発起で懇願。怒られると思いきや「お前、面白いな。半年間で起業できるかどうか判断しろ」と言われ、アルバイトとしてラーメン店で働き始めた。
初期から厨房を任され、麺上げやスープ作りも経験。店の数字も任され「原価はこれぐらいか」「人件費はこれぐらいか」と自主的に考えながら、経営者としての感覚を身に付けていった。
そして、有言実行で半年間の“下積み”を経て起業へ。幸いにも、物件はすぐに決定。実家の裏にはかつて母親が経営していたコンビニエンスストアの跡地があり、所有者も母親のままだったため「建物を改装すれば、ラーメン店ができそう」だとひらめいた。
しかし、すべてが順調ではなかった。最大のハードルは、資金の借り入れ。厨房機器などをそろえるには、少なくとも約2000万円はかかる。アルバイト先の経営者に相談すると「お前の立場では2000万円は借りられない。商工会で相談してみろ」と言われたが、地元の商工会に足を運んでも「難しいと思います」と回答。そこで新たに、地域密着の地方銀行を紹介された。
当初は銀行も難色を示していたが「実家の土地と建物を担保に入れれば、2500万円を用意できます」と言われ、芝山さんは母親に相談。息子は“止めても聞かない性格”だと知っていた母親は「いいよ」とあっさり快諾してくれた。
かくして、2003年に22歳で記念すべき1店舗目の「龍神麺」を地元の桜川市にオープン。当初から多店舗展開を視野に入れており、“下積み”を積ませてくれた経営者による「将来的に会社を大きくしたいなら、銀行の格付を考えておけ。個人事業主ではなく、法人で始めろ」とのアドバイスに従って、有限会社天辺ダッシュカンパニーがスタートした。

スープ作り十数時間、厨房の気温50度の過酷な環境を「変えたい」
1店舗目から経営は上々で、2店舗、3店舗……と、思い描く通りに会社は成長。しかし、店舗が増えるにつれて、芝山さんの中には「ラーメン業界を変えたい」との思いが募っていった。
ラーメン店の労働環境は過酷だ。芝山さんいわく、スープを作るにも数時間~十数時間は火にかけた寸胴鍋を見守っていなければならず、夏場でなくとも、厨房の気温は50度近くまで上昇。独立後に知り合った仲間のラーメン店経営者からは、過酷さゆえに「社員がすぐに辞めてしまう」との声もあった。
そこでひらめいたのが「自社で工場を作りスープを製造して販売すれば、労働環境を改善できるのではないか」という発想。仲間のラーメン店経営者に話すと「代わりに作ってくれるなら、お前のところに頼みたい」と乗り気になってくれた。
思いついたら、即行動に移す。根っからの“止めても聞かない性格”で、工場の立ち上げに奔走。構想を描いた年には東日本大震災の発生により店舗の業績が軒並み落ち込んでいたが、芝山さんは「このままでは沈むばかりだ。一発勝負をかけないといけない」と自らを奮い立たせた。
しかし、順調ではなかった。最大のハードルとして、独立当初のようにまたしても資金の借り入れに難航。銀行は「ラーメン店が作ったスープを、他のラーメン店が買ってくれるものなんですか」と言ってうなずいてくれず、融資を受けるまでには「うちがラーメンのスープを大量生産して販売すれば、ラーメン業界の労働環境にある悪いイメージを払しょくできる」と、何度も熱く説得した。
熱意は届き、1億6000万円の融資をもとに1箇所目の大型スープ工場を設立して、2014年に稼働開始。その後、スープの販売数は飛躍的に伸び続け2020年には1100件を超える取引先を抱えるほどとなり、2021年には2箇所目の製麺工場の新設・スープ工場の拡大、2025年には3箇所目となる第2スープ工場の設立に至った。
2021年はコロナ禍で、緊急事態宣言の影響により経営は赤字に傾く一方だった。しかし、同様の苦境に陥るライバル社がスープ工場の計画を白紙にしたと聞きつけ「むしろ、やるべきだ」と決断。現在では製麺工場、餃子工場と合わせて4箇所の工場による製造部門が主力事業となったが、常に「周囲と同じことをやっていたら、同じ結果になってしまう。リスクを背負い、攻めよう」との思いで、経営を続けてきたという。

高齢化により事業継続に悩むラーメン店のスープを再現
店舗経営、製造部門は順調。今、自身の仕事は社内での決め事をチェックして、最終決定を下すのみとなったという芝山さん。その一方で、ラーメン店の「事業存続」の課題解決にも力を入れる。
全国に数多あるラーメン店では、店主やスタッフの高齢化によって閉店を余儀なくされる店舗も。「おじいちゃん、おばあちゃんがやっている店舗」に足を運ぶ一方で、芝山さんが「利益が出ないのであれば、値上げを考えてみてはどうですか」と話しても、難色を示す店主が多いという。
店主たちも「長年やってきた値段がある。100円でも上げてしまうと、お店を慕ってくれる人たちに申し訳ない」と切実な思いを吐露。しかし、物価高騰による仕入れ価格の上昇なども考慮する芝山さんは「600円が700円になったとしても、常連客がすぐに来なくなるわけではない。お客さんにとっては、お店がなくなる方が困るはずです」と説得を続けている。
事業存続に悩む店舗の負担も和らげるべく、ラーメン店の要望によっては店舗独自のスープのレシピを工場で再現。かつて思い至ったラーメン業界の変革のために、北海道から沖縄まで足を運んでいる。
この先、社名に込めた「てっぺん」にはたどり着くのか。「どこをてっぺんとするかは、ハッキリと決めていません」というが、主力の製造業で茨城県、北関東でのシェア1位を掲げ、その先では「全国1万店舗との取引を目指す」と宣言する。
ただ、社内では幹部に権限を委ねつつあり、かつて決めた引退の期限“50歳”まではあと6年。芝山さんにとって、ラストスパートとなる「ダッシュ」はすでに始まっている。
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