体重94キロで大酒飲み、右脚痛みでも1年先延ばし…バンドマンを襲った病魔 「人の優しさ」に感謝

右脚の異様な痛みが続きながらも、「日にち薬で、時間の経過で治ってくれるだろう」とだましだまし過ごした結果、最悪の状態にまで悪化した。愛知・名古屋で保育士・広報担当として働く46歳の内藤康一さんは昨年、厚生労働省の指定難病「特発性大腿骨頭壊死症」の闘病を経験した。1年3か月近く病院での受診を先延ばし、つえを使っても壁に寄り掛からないと歩けない状況に陥ってしまったが、人工股関節に置き換える手術、リハビリを経て職場復帰した。病気になって多くの場面で感じた「人の優しさ」への感謝を深めているという。病気前の体重94キロ・大酒飲みの暮らしぶりから一変。1年間で20キロ以上減量し、文字通りの健康生活に。人生を変えた闘病について聞いた。

「特発性大腿骨頭壊死症」の闘病を経験した内藤康一さん【写真:本人提供】
「特発性大腿骨頭壊死症」の闘病を経験した内藤康一さん【写真:本人提供】

1年間で体重94キロから大幅減量 酒浸りから脱却

 右脚の異様な痛みが続きながらも、「日にち薬で、時間の経過で治ってくれるだろう」とだましだまし過ごした結果、最悪の状態にまで悪化した。愛知・名古屋で保育士・広報担当として働く46歳の内藤康一さんは昨年、厚生労働省の指定難病「特発性大腿骨頭壊死症」の闘病を経験した。1年3か月近く病院での受診を先延ばし、つえを使っても壁に寄り掛からないと歩けない状況に陥ってしまったが、人工股関節に置き換える手術、リハビリを経て職場復帰した。病気になって多くの場面で感じた「人の優しさ」への感謝を深めているという。病気前の体重94キロ・大酒飲みの暮らしぶりから一変。1年間で20キロ以上減量し、文字通りの健康生活に。人生を変えた闘病について聞いた。(取材・文=吉原知也)

 社会福祉法人栄寿福祉会と実業団バレーボールチーム「ビオーレ名古屋」の広報部長を務める内藤さん。体に異変が起きたのは、2023年12月のことだった。

 保育園の廊下を歩いていた際、右股関節に、突然の激痛が走った。「ピーンと電気が走るような感覚です。でも、痛みはすぐに消えたので、『なんだったんだろう』と思いながらそのまま過ごしました」。

 痛みは徐々に強くなっていった。それでも、仕事はできる状態で、自分で自分をごまかした。「病院に行くのが怖かったんです。周りからは『早く行きなよ』と言われていましたが、どうにも気が向かなかったです。つえを使うようになり、どんどん悪くなっていき、『脚を切断するようになったらどうしよう』などネガティブに考えるようにもなりました。今思えば、怖かったのは病院ではなく、診断で現実を突き付けられることだったのだと思っています」。こうして受診のタイミングを逸していった。

 内藤さんはバンドマンという異色の経歴を持つ。若い頃から音楽業界を志し、パンクバンド「SOBUT」のスタッフとして従事し、サポートギタリストに加わって北海道から九州まで全国のステージを回った。26歳でバンドを離れ、子どもが好きだったこともあり、30歳で保育士の資格を取得。保育現場で働き、4年前から広報職に異動。趣味のカメラを生かして、はつらつと育つ園児たちの姿を撮るなど、保護者とのコミュニケーションも大事にしている。現在も自身のバンド「ザ・アイロンベイビーズ」で活動している。

 一方で、運動をせず、毎日大量の飲酒。健康への意識は薄く、間食を取り放題で、食生活はがたがただった。

 右股関節の痛みが出始めてから約1年が経過。悪化を重ねていた。足を引きずるようになり、つえを使っても壁に寄り掛からないとしんどい。靴下を履くのも苦労するようになっていた。それでも、無理して仕事を続けていた。「もし保育士のままだったら、完全に無理でした。でも、一度座れば何とか痛みをこらえて仕事ができたので、だましだましでやっていました」。だが、限界がやってきた。

 25年1月、股関節の病気の手術を控えていた職場の先輩に相談。専門的な病院を紹介してもらうことができた。3月に初めて受診。検査の結果、特発性大腿骨頭壊死症と診断された。45歳だった。「変な話、驚くというより、逆にホッとしました。先生から『手術して人工関節に換えれば、また歩けるようになれるでしょう』と言っていただきました。一生歩けなくなるかもという不安もあったので、救われました」。

 血液検査の結果については厳しい指摘を受けた。「このままの生活を続けていると、本当に死にますよ」。肝臓の数値が深刻な状態だった。命に関わるリスクを理解して改心。その日から酒をほとんど口にしていない。

手術・リハビリを経て職場復帰を果たした【写真:本人提供】
手術・リハビリを経て職場復帰を果たした【写真:本人提供】

「人に頼ることへの抵抗がありました」 リハビリで気付かされたこと

 手術のスケジュールはすぐには取れず、7月の実施となった。無事に成功。間を置かず、リハビリがスタートした。「血栓予防と聞きましたが、痛くても動かすしかなかったです」。術後に初めて外の道路を歩いた時、予期しない感覚に直面した。「アスファルトのわずかな凹凸や傾斜がダイレクトに響いてきて、小石一つにもつまずきそうになって。全然バランスが取れず、衝撃を受けました。健康な時は何とも思わなかったのですが、普通に歩けることのありがたさを知りました」と振り返る。

 リハビリ期間中、つえをついて移動する中で、人々からの善意を何度も受けた。ショッピングセンターでは、すれ違う人が自然と道をあけてくれた。洋服店での買い物時は店員が代わりに商品を袋詰めしてくれた。バスに乗っていると、気付いた乗客が声をかけてくれた。

「自分自身、それまで大きな病気をしたことがなく、人に頼ることへの抵抗がありました。本当は激痛で立つのがつらくても、40代半ばの年齢というのもあって、優先席に座ることにためらいを感じていました。ヘルプマークをつけることにも『自分がつけていいのかな』という感覚はありました。バスで気付いた方が席を譲ってくださり、本当にありがたかったです。看護師の方々の存在の大きさにも改めて気付きました。弱った時は人の手を借りることの大切さ、そして、人の優しさについても実感しました」

 約3か月のリハビリを経て職場に復帰した時、園児たちは飛び跳ねて喜んでくれた。手術前に報告をした時、お守りやお手紙を渡してくれた子もいた。心打たれた。

 園児たちは心優しい子ばかり。もうつえを使わず、すっかり回復している今でも、小さな子が「抱っこして!」と内藤さんのもとに走ってくると、4~5歳の子が「だめ! コーイチベイビーズ先生(内藤さんのあだ名)は足が痛いんだから!」と制止してくれる。「僕は『もう大丈夫だよ、ありがとう』と伝えて、抱っこしてあげます」。子どもたちは内藤さんの体を気遣い続けてくれている。

 たくさんの思いやり。「子どもは、愛情を注いだ分だけ必ず愛情を返してくれる。改めて教えてもらいました。それに、街中で困っている人を見かけたら声をかけようと、改めて心に誓いました。それは病気になって得た、大きな財産だと思っています」と優しく話す。

人工股関節が写ったレントゲン写真をTシャツに【写真:本人提供】
人工股関節が写ったレントゲン写真をTシャツに【写真:本人提供】

「健康は失って初めてありがたさが分かるものだと痛感」

 病気になって、食生活も根本から見直した。白米を玄米に変え、揚げ物やお菓子を一切やめ、野菜・発酵食品・ブルーベリーを中心とした食事へ切り替えた。筋肉を付けるための筋トレも継続している。1年間で体重は94キロから現在73キロに。酒浸りから脱却した。「リハビリ期間を終えたある日、地下鉄に乗った時、自分でも気付かないうちにエスカレーターを使わず、階段を上っていました。『歩きたい』と自然と思うようになれたんだなって。心も体も生まれ変わったんだと、うれしくなりましたね」。

 手術後には、自身の人工股関節が写ったレントゲン写真をデザインしたTシャツを製作するなど、ポジティブシンキングを広めている。これからは無理をし過ぎず、健康第一で体づくりに励むつもりだ。「健康は失って初めてありがたさが分かるものだと痛感しました。難病になったことは確かに悲劇でした。でも、この経験があったからこそ、自分の体を学び、生活を見直し、人の優しさに気付き、他人にも優しくなれるようになりました」。

 闘病に直面している人たち、そして、40~50代の同世代にも伝えたい思いがあるという。「まず、同じように病気や手術を経験した人、今まさに不安を抱えている人に、『そこからでも生活を立て直すことはできる』と伝えたいです。僕の場合は、もっと早く病院に行けばよかった。教訓にしています。痛みが出たら、異変を覚えたら、早く受診すること。そうすれば、治療の選択肢が広がるし、仕事の引き継ぎや心の準備も計画的に進められます」。自身の苦い経験を通して、こう強調する。

 そして、「僕には子どもがいますが、家族を持つ人が急に病気になって働けなくなったら、子どもの学費をどうしようと不安になると思います。そこまで想像して、日頃の食生活・運動習慣を本気で考えてほしいです。月並みですが、健康を大事にすること。僕なりに伝え続けていきたいです」。真剣な目つきで語った。

次のページへ (2/2) 【写真】バンドマンのリハビリ軌跡 実際の様子
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