デビュー50周年の藤波辰爾、プロレスは「いまだに何か分からない」 現役続行の理由明かす

プロレスラーの藤波辰爾(67)のデビュー50周年ツアーが幕を開けた。10月には左足の蜂窩織炎(ほうかしきえん)により2週間弱の入院。同世代のレスラーが続々と引退する中、コンディションの維持に努め、プロレス史に残る偉業を成し遂げた。還暦を超えてもなお、リングに上がり続ける“ドラゴン”藤波の原動力とは何か。11・9東京・後楽園ホール大会での記念マッチ(藤波、天山広吉、小島聡組VSグレート・ムタ、白使、KAZMA SAKAMOTO組)を前に、胸中を直撃した。

両手で「5」「0」のマークを作った藤波辰爾【写真:ENCOUNT編集部】
両手で「5」「0」のマークを作った藤波辰爾【写真:ENCOUNT編集部】

11・9後楽園でムタ、白使、SAKAMOTO組と6人タッグで激突

 プロレスラーの藤波辰爾(67)のデビュー50周年ツアーが幕を開けた。10月には左足の蜂窩織炎(ほうかしきえん)により2週間弱の入院。同世代のレスラーが続々と引退する中、コンディションの維持に努め、プロレス史に残る偉業を成し遂げた。還暦を超えてもなお、リングに上がり続ける“ドラゴン”藤波の原動力とは何か。11・9東京・後楽園ホール大会での記念マッチ(藤波、天山広吉、小島聡組VSグレート・ムタ、白使、KAZMA SAKAMOTO組)を前に、胸中を直撃した。(取材・文=水沼一夫)

――10月に蜂窩織炎で2週間弱の入院。体調が心配されました。

藤波「いやー、まいったまいった。最初はふくらはぎが腫れてきて、ばい菌かなと。自分で毎晩、風呂上がりに消毒しながら治療していたんだけど、一向に腫れが引かなくて、10月に入る手前、色が赤紫になった。水ぶくれができて、袋が破れてびしょびしょ。足から水が出ている。家内(伽織夫人)が『これ普通じゃない。診てもらったほうがいい』と言われて医者に行ったら、先生に『あ、これもう蜂窩織炎だから。なんでここまで放っておいたの?』と言われ、入院しました」

――50周年ツアー初戦の10・31大阪大会が控えていました。

藤波「菌が回っていたら全部切開して洗っていた。それがひどくなったら壊死。大会の1週間ちょっと前でしょ。退院できなかったらどうしようかなと思ってね。先生からは『え、これリング上がりますか? ギリギリで最悪の状況は回避しましたけど、大丈夫ですか?』って言われたけど、日が迫ってきちゃうし、やらなきゃしょうがないと。一応、傷口は全部ふさがったからね」

――間に合ったのは奇跡的でした。

藤波「今回の病気だけじゃなくて、腰のときもそうなんだけど、ちょっと体を使い放しにしすぎたなっていう思いはありますね。そのときばかり反省しても遅いんだけどね。自分の体を50年の中でどこかでケアしたらよかったなと。ちょっと過信し過ぎた。自分がプロレスにこだわるならなおさら気にしなきゃいけないんだけどね」

――アクシデントはありましたが、50年間、闘い続けてきました。

藤波「50年の間に波瀾万丈、いろんなことがあったけど、それはぜいたくであってね。たぶん周りから見たら、こんなにいいプロレス人生を歩んだ人間はいない思う。最初ははしにも棒にも引っかからない、格闘技の経験のない人間がね、ただプロレスが好きで、(アントニオ)猪木さんのファンで、それだけでここまでやってこれた」

――日本プロレスに入門したのは、実に1970年のことです。

藤波「北沢(幹之)さんに感謝だよね。猪木さんのカバンを強引に持たせてくれて、あたかも新弟子になったかのように、既成事実を作ってくれた。それでプロレスのスタート。入門テストとかない。北沢さんがいなかったら、ボクはここまで……。普通の業界では入れる要素ないんだもん。それと、ボクのアニキ(栄二さん)。別府温泉で北沢さんが療養している温泉旅館を探し歩いてくれた。そのアニキの執念だよね。絶対ボクをプロレスラーにさせるんだっていう。何十軒と探したからね。で、忘れもしない『ゆかり壮』。温泉旅館の名前。泊っていると聞いたときは、もう衝撃だったね」

――50年たって猪木さんへの思いは。

藤波「一緒。レスラーとして横浜でシングルマッチ(1988年8月8日、横浜文化体育館)したとかあるけど、でも、気持ちの中では入門したときと全く一緒。猪木さんのところにあいさつしても、いまだに直立不動で汗かく」

――長期入院から半年ぶりに退院した猪木さんとは9月に再会しました。

藤波「一時期はYouTubeで(その変わり果てた姿に)びっくりしたけど、元気になってホッとしている。食事をしたけど、顔色もよかった。ちょうど50周年ツアーがこれから始まるというときだったので、その話もしました。『1年かけて(全国)回れるところあったら回ってきますので、猪木さん、最後に1つ、よきときにボクら(リングに上がる舞台を)設定しますので、そのときはよろしくお願いします』って言ったら、ニヤって笑っていました。猪木さんも絶対、それを今度は自分の糧として、また(体調が)よくなってくれるだろうしね。ボクもあえて言いたかった。あの人は何かを言うと、それを1つの自分のエネルギーにする。闘おうと思う。今、50周年ツアーのパート1で、来年の春がパート2。そして秋だよね。場所はどこにするか、ちょっと大きなところを考えています」

――50年たって思い返す試合はありますか?

藤波「多すぎる(笑い)。それだけボクは幸せだよね。それだけの試合やらせてもらっている。選手に恵まれている。もちろん、その中では最初のデビュー戦の北沢さんとの試合もそうだし、その後の海外での試合もそうだし、運命を変えたニューヨークでのマジソンスクエア・ガーデンでのチャンピオンシップ(78年1月23日、カルロス・ホセ・エストラーダとのWWWFジュニア選手権)。それから帰ってきて、間髪入れずに、長州(力)との一戦が始まって」

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