【プロレスこの一年♯42】力道山興した日本プロレスの崩壊 東京五輪金メダリストの全日本入団 73年のプロレス

今から48年前の1973年は、アントニオ猪木の新日本プロレスとジャイアント馬場の全日本プロレスが旗揚げ2年目。73年のちょうど今頃、4月には、日本マット界の父、力道山が興した日本プロレスが崩壊する大事件が勃発した。老舗団体の消滅で、日本はマット界は国際、新日本、全日本の3団体時代に突入する。

ジャイアント馬場(写真は1985年)【写真:平工 幸雄】
ジャイアント馬場(写真は1985年)【写真:平工 幸雄】

日プロ最後の大会は4月20日のシリーズ最終戦

 今から48年前の1973年は、アントニオ猪木の新日本プロレスとジャイアント馬場の全日本プロレスが旗揚げ2年目。73年のちょうど今頃、4月には、日本マット界の父、力道山が興した日本プロレスが崩壊する大事件が勃発した。老舗団体の消滅で、日本はマット界は国際、新日本、全日本の3団体時代に突入する。

 3月3日に吉村道明が引退した日プロの崩壊は、シリーズ中の4月14日に明らかになった。これに先立つ3日には営業部全員が辞表を提出し、興行機能を失っていた。それでも選手会主催によりシリーズを続けていたのだが、14日の会見で大木金太郎が「全選手の身柄を百田(力道山)家に預ける」と発表。選手たちは、力道山創設による別組織に帰属することとなったのである。

 4月20日には群馬県吉井町でシリーズ最終戦が開催され、これが日プロ最後の大会となった。最終試合ではインターナショナル選手権、アジアタッグ選手権、インタータッグ選手権、UN選手権のタイトルマッチが行われた。日プロの崩壊とは対照的に、この年、猪木・新日本と馬場・全日本は着々と体制を整えていく。

 全日本はNWA総会に出席し、2月3日に馬場のNWA加盟が承認された。アメリカマット界における馬場の信用度が証明された形で、全日本は大物外国人レスラーをよりいっそう招聘(しょうへい)しやすい環境に置かれることとなる。

 続いて全日本は、PWFの設立を3月16日に発表、会長にはロード・ブレアースが就任した。馬場は前年より「10人のトップレスラーと闘い納得いく戦績を残せたらベルトを巻く」と宣言しており、「世界選手権争奪戦」と銘打つシングルマッチを戦っていた。2月27日にボボ・ブラジルを破ると、力道山家から寄贈されていたベルトを巻き、この王座はPWFの設立とともに名称をPWF認定世界ヘビー級選手権とした。争奪戦を8勝2分けで終えた馬場が初代王者に認定されたのである。

 前年10月31日に全日本に入団したミュンヘン五輪アマレス日本代表・鶴田友美が3月22日、テキサス州アマリロに出発。アメリカ武者修行に旅立った。この年、全日本は「第1回チャンピオン・カーニバル」を開催、4・21福井で馬場がマーク・ルーインを破り、初回大会を制覇した。馬場は4・24大阪でザ・シークを破り、PWF王座を初防衛。3日後の27日には日プロの吸収を発表し、6・30行田で大木をはじめとする元・日プロ勢9選手が全日本に合流した。

 さらに9月26日には東京オリンピック柔道無差別級金メダリストのアントン・ヘーシンクの全日本プロレス入りが明らかになった。10月に入ると鶴田がアメリカから凱旋(がいせん)帰国。10・9蔵前では馬場とのコンビでドリー・ファンクJr&テリー・ファンク組のインタータッグ王座に挑戦、60分フルタイム戦ってのドローという健闘を見せた。鶴田は27日、ジャンボ鶴田に改名する。ヘーシンクは11・24蔵前でデビュー。こちらも馬場とのコンビを結成し、ブルーノ・サンマルチノ&カリプソ・ハリケーン組と3本勝負で対戦、2―0のストレート勝ちを収めた。

 この年の10月、全日本を主戦場とするザ・デストロイヤー日本テレビのバラエティー番組「金曜10時、噂のチャンネル」にレギュラー出演。和田アキ子、せんだみつおらとのやりとりが大受けし、全国区の知名度を獲得した。

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